氷血の皇子


第一部「胎動編」 第十一章「一線」7

「ほら、早く、行った行った」
 話は終わったとばかりに、マルソフィリカの身体からガウンを剥ぎ取って、ヴェルヴィオイは出入り口とは逆の方向へと追い立てた。 マルソフィリカが一体どこから出てきたのだか知らないが、衣装用納戸の内側からであることは確かだろう。
「ヴィー、また、ヴィーのお部屋へ遊びに来てもいい?」
 寝室の燭台から手燭へと、灯を移してきたヴェルヴィオイからそれを押し付けられながら、心許なげにマルソフィリカはその顔を見上げた。ガウンを取り上げられた肩は寒く、 さも迷惑げに自分を追い返そうとしているヴェルヴィオイの態度に、先ほどまでのうきうきとした気持ちは消し飛んでいた。

「駄目。マルソーに秘密があるように、俺にだってマルソーに秘密にしておきたいことはあるんだよ。今日のところは許してあげる。けど、今度来たら、 マルソーがこんな悪さをしましたって、アスターからマルソーの父上様に言い付けてもらっちゃおうっと」
 本気が伝わるように強く駄目出しをしながら、マルソフィリカに向かって、連日駄目駄目と駄目を連発するらしい、彼女付きの宮女や衛士の気持ちをヴェルヴィオイは察した。
 自分もまた、素行不良の主君に違いはないのだろうが、ヴェルヴィオイは皇族ではないし姫でもない。まして他人を困らせてやろうという時には、 ちゃんと悪気を持ってやっている。天衣無縫なマルソフィリカほどの問題児ではないはずだ。

「嫌! 父上様には言わないで!」
「だよねえ。マルソーは今、父上様からめちゃくちゃ怒られることしてるよね?」
 いくら親馬鹿親父といえども、いや、親馬鹿親父であるからこそ、可愛い一人娘が、夜中に人知れず男の室へ遊びに行くことを、決して認めなどしないだろう。 その巻き添えを食って、ヴェルヴィオイもまた、さらに厳しく処分されてしまいそうなので、本当は告げ口などさせるつもりはさらさらないが。

 そんなヴェルヴィオイの本心は知りようもなく、マルソフィリカは助けを求めるようにアミスターゼを振り仰いだ。
「アスターお願い! 父上様には絶対に言わないで。父上様を怒らせたら、厩舎にだって、馬場にだって行けなくなっちゃう……!」
「と、申されましても……」
「へーえ」
 これは良いことを聞いた、と言わんばかりの顔つきで、ヴェルヴィオイはにやりとした。アミスターゼの渋り具合も功を奏したようで、マルソフィリカはとうとう、 泣き出しそうになりながら宣言した。

「帰るっ……! 帰るわ、マルソー。もう勝手に、ヴィーのお部屋には来ないから。約束するから、二人ともここから出て行って!」
 帰るのに出て行けとはこれいかに? という発言だが、実際二人が見ている目の前で、マルソフィリカは帰れないのだろう。アミスターゼと目配せをし合ってから、 ヴェルヴィオイはマルソフィリカに呼び掛けた。
「マルソー」
「何……?」
 腰をかがめたヴェルヴィオイは、親指の腹で、今にも涙を零しそうになっているマルソフィリカの目尻を拭うと、そうしてやることで自ずと閉じた、 震える瞼にそっと口づけた。
「一緒に寝てはあげられないけど、もう怖い夢は見ないおまじない。お休み、マルソー。また、馬場でね」



*****


「またあなたは、性懲りもなく……」
 衣装用納戸にマルソフィリカを一人残し、扉を閉ざしてアミスターゼは嘆息した。中ではこれから、皇女殿下がどろんと消える、奇術が起こるはずである。
 先に外へ出ていたヴェルヴィオイは、すぐに寝台へ戻って行くのかと思いきや、その場で足を止めたままであった。ヨデリーンが夜番をしている今夜は、 一人では寝つきが悪いという主君に、自分が添い寝をしてやらねばならないが、積極的に寝台へ向かうと思われるのもしゃくで、アミスターゼも立ち止まる。

「ちょっといじめ過ぎたみたいだから挽回しといただけだよ。仲ってほどの仲はないけど、下手にマルソーと拗らせると、マルソーの周りっていうか、 父上様っていうかがめんどくさそうだし」
「仲良くおなりになり過ぎても、面倒くさくなるでしょう。ほどほどのところで保っておいて下さい」
 アミスターゼの難しい注文に、ヴェルヴィオイは煩わしげに頭を掻いた。

「そこらへん、はっきり言って、俺っていうよりマルソー次第だと思うんだけどなあ。何あの謎の行動力。皇女殿下に男に夜這いをかけられるような、 秘密を持たせていいわけ?」
「皇帝陛下が皇女殿下に秘密を伝えられたのは、夜這いのためではない、とだけ申し上げておきましょう」
 ヴェルヴィオイのふざけた質問に、アミスターゼは真顔で答えた。その件について、深く追求するなという気持ちが透けていた。

「そんなのは、わかってるって。ロジェンターのおっさんたちに、若い身空を囚われて嬲られて、嫌ーな思いを山ほどした、皇帝自身の経験がそうさせたんだろ?  マルソーの言う秘密――を、もしも、もしもだよ? マルソーから聞き出すとかじゃなくて、偶然誰かが知っちゃったら、そうしたら、どうなるんだろう?」
 その誘惑にかられるままに、ヴェルヴィオイはマルソフィリカが去ったと思しい、衣装用納戸の扉を開けた。まるでその行動を予測していたかのように、 暗がりの中から影が飛び出した。

「ヴィー!!」
 アミスターゼの叫びが耳を打ち、両目を覆うように回された手で、ぐいと乱暴に引き寄せられたかと思うと、つい今し方まで自分の身体があったような間近から、 キンッと鋼がぶつかり合う固い音が響いた。
「アスター、何っ?」
「しっ、黙って!!」
 視界を塞がれ、背中に当たるアミスターゼの胸板に、後ろから抱くようにして庇われているのを感じながら、ヴェルヴィオイはひりひりとするような空気の中、 どくどくと早鐘を打つ自分と鼓動と、アミスターゼの緊迫した声を聞いていた。

「『猫』! この方は、皇帝陛下の御落胤である可能性を否定できない。処罰を受けずとも良いかも知れぬ御方です。何卒、子供のしたこととお見逃し下さい!」
「――手綱を締めておくのだな、『蛇』。二度目はない。次はお(ぬし)もろとも首を掻くぞ」
 アミスターゼの説得に答えたのは、唸るような女の声であった。
合点(がてん)しております」
 アミスターゼのその返答を最後にして、長い長い沈黙が降りた。目隠しがやっと外された――かと思うと、ヴェルヴィオイは脱力した様子のアミスターゼに、 そのまま負ぶさるような形でだらりと体重をかけられた。

「ちょっ、アスター、重っ」
「重いくらい何です。あなたは私を殺す気ですか……」
「殺す気なのはどっちだよ! 危ないから早く剣、剣仕舞って!」
 アミスターゼの右手には、ぎらぎらと輝く白刃が握られていた。先ほどヴェルヴィオイが、視界を奪われた状態で耳にしたのは、 おそらくそれで相手の凶刃を受け止めた音であったのだろう。アミスターゼが抜刀している必要性は飲み込めたが、彼の重みに耐えきれず、今自分が体勢を崩したら、 どんな惨事が訪れるかとヴェルヴィオイはぞっとした。

「あなたをお守りする剣ですよ。あなたがいい子でいらっしゃるなら危なくはない」
 そう言って、身を立て直したアミスターゼは抜き身のままの剣の柄を、背後に立つ自分の身体を壁にして、ヴェルヴィオイの鳩尾にぐいと押し当てた。
「ほうら、危なくない」
「どこがっ。危ないのは剣よりも、それを持ってるあんたの方だった」
 物理的な圧迫と心理的な恐怖心で、身動きを取れなくされたヴェルヴィオイは、せめてもの抵抗として肩越しにアミスターゼを睨み上げた。

「助けて差し上げたのに心外ですね」
「それがあんたのお仕事なんだろ?」
「陛下が何を優先されるかによりますね」
 皇帝の親衛隊から抜けた今でも、アミスターゼはヴェルヴィオイの守役である以前にエクスカリュウトの配下である。エクスカリュウトの気が変わった瞬間に、 柄ではなく剣先の側を突き立てることもあり得るぞと、ほのめかすような口振りだった。

「さっきのは、何? 『猫』……だっけ? 向こうはあんたのことを『蛇』って呼んでいたね」
「師匠のつけたあだ名ですよ。つまらぬことですお忘れなさい」
「何であんたは『蛇』っていうわけ?」
「さあ? 性格ではございませんか? 命を摘まれかけたというのにしぶとい方ですね。知ってはならないことばかりを知りたがる、悪い子のお口はこの口ですか?」
 お仕置きをするように、アミスターゼは空いていた左手でヴェルヴィオイのおとがいを掴み上げ、己が唇でその口を塞いだ。遠慮会釈の欠片もない、 舌をねじ込み唾液を流し込む、蹂躙するかのような接吻だった。

「……外へ、出たいんだよ」
 刃への恐れで肌を粟立たせ、男に荒く貪られる背徳的な興奮に、酩酊しながらヴェルヴィオイは白状していた。脅迫されているような状況がそうさせるのか、 どうにも我慢をしていられずに、ぺらぺらと軽く口が動いた。
「秘密の入り口から入って、秘密の出口へ出る……、マルソーの通って来た道は、たぶん方々に繋がっている。きっとどこかは、皇宮の外にだって通じているんだろう……?」
「本当に、いらぬことにばかり頭が回る。あなたがお足を踏み入れたとしても、出て来る時にはご遺体となっているのが落ちですけれどね」
「そこには『猫』がいるから……?」
「『猫』がいたのはあなたがおいたをしたからです。あれは皇女殿下を守護する者。度重なるあなたの淫行に、腹を据えかねていたのでしょう」
 ヴェルヴィオイの質問に、アミスターゼは微妙にはぐらかした答え方をした。しかしそれを気にするよりも、今の今まで結構な猥褻行為を働いておきながら、 アミスターゼがマルソフィリカに対するヴェルヴィオイの行いを、淫行呼ばわりしているのがヴェルヴィオイにはおかしかった。

「だから女だったんだ」
「皇女殿下のお近くには、常に『猫』が控えております。殿下はお一人に見えても、厳密にはお一人ではあられない。心しておかれますよう」
「はっ……、お転婆姫はお守りをするのも大変だ」
「皇后陛下のご養子君も大概のものですが」
「懲らしめにかこつけて、役得を得てる守役が言う?」
 後ろ手にアミスターゼの首を抱き、そこに流れる髪を掴みつつ、ヴェルヴィオイは今度は自分から唇を寄せた。なされるがままの宮女たちとでは味わえない、 主導権を争うような刺激的な接吻に痺れながら、胴を押さえる腕に指を這わせて、剣を引かせるのも忘れなかった。

「それにしたって変だよね。皇帝陛下は昔、何でそれを使って逃げなかったわけ? 隠し扉も隠し通路も、後から内緒で付け足せるような簡単なもんじゃないよね?」
 誘ったのか押し倒されたのかわからぬままに、ヴェルヴィオイは寝台に身を沈めていた。鞘に収めた剣を枕元に置き、長靴と胴衣を脱いだアミスターゼは、 ヴェルヴィオイの抱き枕となるために、続けて襯衣(シャツ)の脱衣にかかっている。

「ご存知でなかったからですよ。エクスカリュウト陛下は、先帝の御部屋様付き宮女腹の最下位の皇子であらせられましたから。皇宮にかような仕掛けがあることを、 陛下がお知りになられたのは、師匠を(かしら)に『猫』のような者たちを、使役されるようになった後のことです。 おそらくは先帝崩御後に、戦場で弑逆(しいぎゃく)された皇太子殿下のお命と共に失われ、 本当に必要であった時には、役立てられることなく埋もれてしまった……、それだけ限られた方にしか伝えられてこなかったような秘密です」
「そんな重たい秘密を、知らされているんだ、あんたは」
「そういったものがあることを、知っている――というだけです。私は師匠の弟子ですから、そのおこぼれで。隠し扉の一つも探り当ててしまえば、 処分対象となるのはあなたと同じです。ヴィー、主君であるあなたが、それを使う資格をお持ちで無い限りは」
 切り込むようにそう言いながら、上半身は肌着のみとなったアミスターゼは、ぎしりと寝台に乗り上がり、そこに横たわるヴェルヴィオイを見下ろした。

「資格――ね」
「そう、資格。あなたご自身は、その有無について、何も覚えはないのですか?」
「それを誰より知りたがっているのは、この世の中できっと俺だよ。マルタのところで言わなかったっけ? いきなり皇宮へ連れて来られて、別れだって、 ちゃんとしてきてないんだって。どんなでたらめみたいなことだって、俺は教えて欲しかったのに、ミレーヌは、一言も、何も……!」
 何故自分は、今こんなにも素直に、感傷的になってしまっているのだろう? ずっと心につかえてきた、ミレーヌへの文句を吐き出してしまってから、 ヴェルヴィオイは背けた顔に右手の甲を乗せた。

「……見んな」
「母という存在は、たいていの人間にとって大きなものです。愛していても、恨んでいても。ましてあなたは、まだ子供のお歳でいらっしゃる。 そんな表情もなさるのだということを、恥ずかしがられることはない」
 母恋しさから、傷つき、ふてた、ヴェルヴィオイの髪を宥めるように撫で上げて、アミスターゼは慰むような囁きを続けた。
「早く乗馬の腕を上げなさい。気が向いたら、野外練習の名目で、私がお外へ連れ出して差し上げる」
「……どうしたらあんたの気が向くわけ?」
 皇后方の者たちよりかはよほど心を許しているが、皇帝に繋がるアミスターゼもまた、ヴェルヴィオイには信じてよいかがわからない。
 けれどミレーヌの口から真実を確かめ、背中を押してもらわなければ、ヴェルヴィオイは一歩も進めなかった。決して多くは望まない。たった一つだけでいい……。 自らの意志でここに在り、この手で未来を切り拓いてゆくために、母の期待という名のよすがが欲しかった。

「そうですね……、先刻のお誘いはまだ有効ですか?」
「何でそんなこと確認するわけ?」
「いたぶりたくなる風情でおいでだ。今のあなたには、たまらなくそそられますね」
「あんたってほんと、悪趣味だよな!」
 顔の上から上腕を跳ねのけて、ヴェルヴィオイはしばしの間、欲情で瞳を滾らせているアミスターゼをねめつけた。そうしてから、不意に蠱惑的な微笑を上らせ、 まるで食いつかせでもするように、首をひねって首筋を覗かせた。
「いいよ、きなよ、アスター。あんたがしたいどこまでだって……。あんたの頭がおかしくなるまで、たらし込んであげるから」

- continue -

2016-11-23

  


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