第三章 「総領」 3
「全く困った御方だ。この大事の折に、一門の足並みを簡単に乱して下さるから、いらぬ騒動の原因になる」
バークレイルの退出を見送ると、グネギヴィットはぴんと張っていた背筋の緊張を解いて、革張りの椅子に沈み込みながら深々と
溜め息をついた。
「ローゼンワート、他の分家の方々はいかがなされている? バークレイル叔父上があのご様子では、
つられて気炎を吐いておられる方が他にもおいでだろう」
「はい。ですが、痺れを切らして真正面から押して来られる方はバークレイル様くらいのものです。
他は皆様、水面下での駆け引きをなさっているに止まり、それなりの節度はお守りでいらっしゃいます」
グネギヴィットの傍らに戻りながら、ローゼンワートは淡々と述べた。分不相応な権を握る『傍流の若造』を攻撃する
誹謗中傷は耳に入っていたが、彼にとってはどこ吹く風である。
「節度があろうとなかろうと、身内の中に叛意を抱えている方たちがいるのは大きな問題だね」
皆様、という表現に、グネギヴィットはげんなりとして名を挙げさせる気にもなれなかった。一度一門の主だった人物を召集し
て、襟を正させた方が良いかもしれない。
「貴族の家系にお家騒動はつき物です。本家の財も州公の権も、浮き足立った蝶を惑わせる甘い蜜のようなもの。
しかしながら、バークレイル様同様に、ご自分が不当であることは重々ご承知の筈。グネギヴィット様がシモンリール様の代行を
務める為にお戻りになられたと知れれば、各々方の儚い夢も覚めることでしょう」
「おかしな話だ。わたくしを総領と認めて引き下がるというならば、最初から邪(よこしま)なことなど考えずに、
みなで兄上の快復を祈ってくれれば良いのに」
凝り固まった眉間を指先で解しながらグネギヴィットはぼやいた。憂いに満ちた貴公子のような風情に、
拗ねた子供のような口ぶりがいささか不釣合いであった。
「残念ながらその段階は、とうに行き過ぎているのだとご覚悟下さい。あなたにとっては晴天の霹靂でございましょうが、
シモンリール様の患いを、私どもはずっと、固唾を呑んで見守ってきているのです」
公爵家一門の野心家たちから、目の敵にされているローゼンワートであるが、彼自身はシモンリールの補佐役であることに満足
しており、自らが成り上がるつもりなど毛頭無かった。表面上は平常を保っていたが、日一日と悪化の一途を辿っている年下の
当主の容態は、ローゼンワートの胸の内にも暗くて深い影を落としてしまっている。
「けれど、諦めて祈りをやめてしまうにはまだ早過ぎるだろう? 兄上はこれまでにも、何度か死線を乗り越えてこられた。
此度も必ず、病に打ち勝って下さるに違いないとわたくしは信じている」
痩せ衰えた兄の姿がふと脳裏を過ぎると、底なしの暗闇に足元を掬われてしまいそうになる。それでもグネギヴィットは、
悪い予感を振り払いながら気丈に心を奮い立たせていた。
「改めて言わせて下さい、本当によくお戻り下さいました、グネギヴィット様」
その凛として迷いの無い、生気で輝く黒い瞳がローゼンワートには少し眩しい。グネギヴィットの艶やかな黒髪を一房掬い上げて、
ローゼンワートは恭しく唇を押し当てた。
「どさくさに紛れて、許し無くわたくしに触れるな、ローゼンワート」
「これは手厳しい。この美しい髪の一筋までも、既に王太子殿下のものというわけですか?」
「ユーディスディラン殿下は清廉な御方だ。お前のように手癖の悪い男と一緒にするな」
自らの長い髪を、指に絡めて弄ぶローゼンワートから奪い返して、グネギヴィットは右耳の下で束ねるようにして、
両手でぎゅっと握り締めた。
「あいかわらずの鉄壁ぶりでいらっしゃいますね。そのご様子では、王太子殿下とは、やはり清い交際のままですか?」
答えは聞くまでもないと知りつつも、ローゼンワートは揶揄するように尋ねた。グネギヴィットは案の定、
きりりとした黒い瞳でローゼンワートをねめつける。
「当たり前だろう、何故そのようなことをいちいち確かめる?」
「いえ、少しばかり殿下がお気の毒な気がしただけです」
「お気の毒?」
ローゼンワートの回答は、グネギヴィットの理解に遠く及ばなかった。せっかく解した眉間を訝しげに寄せる令嬢に、
ローゼンワートは軽薄に手を振った。
「深くお考えにならなくて結構ですよ。やるせない男の性(さが)というものですから。
まあ、手を出せないなら出せないで、それなりの愉しみ方はございますが」
そう言って、衣服越しに裸体を想像するようにして、目をすがめて見せるローゼンワートの胸元に、
グネギヴィットは勢いよく指先を突きつけた。
「ローゼン!! これ以上その卑猥な視線をわたくしに向けてみろ! 兄上が何と仰せになられようと、
執政長官の肩書きを剥奪して、お前を州府から叩き出してやるからな!」
「ちょっとした出来心ですよ。お許し下さい」
笑いながら降参をするように、ローゼンワートは諸手を上げる。その不真面目さに憤慨しながら、
グネギヴィットはローゼンワートを詰問した。
「何が出来心だ、この痴れ者!! ならばお前は、無責任な流言飛語に乗じて、くだらない賭け事を始めたのも、
出来心だと言い逃れをするつもりか!?」
「――何を根拠にそのようなお疑いを?」
口元に笑みを残しながら、ローゼンワートは瞳の微笑みを消した。その物騒な表情に臆することも無く、
グネギヴィットはローゼンワートを睨み上げる。
「決まっている。いかにもお前がやりそうなことだからだ」
「信憑性があるようでいて、全くない理由ですね」
「直感に勝る根拠があるものか。わたくしはお前に、叔父上が仰っていた賭け事の首謀者なのだろうと問うている。
正直に答えなさい、ローゼンワート」
「……答えは応です。理屈は実に強引でございますが、たいした炯眼でいらっしゃいますね」
「つまらぬ世辞はいい。わたくしが留守の間に、よくもまあそんな恥知らずな真似をしてくれたものだね。
叔父上よりも誰よりも、お前が一番始末に困るぞ、ローゼンワート」
「私的な酒の席で、ほんの戯れに始めたことが思わぬ具合に白熱することになってしまって、私とて反省はしておりますよ」
当初はごく内輪での他愛無い遊びであったものが、一旦人の口に上ると瞬く間に広まってしまった。
なんということはない。それだけ暇人が多かったというわけだ。
「念の為に尋ねておこうか、お前は一体どちらに賭けている?」
「私が最初に賭けを持ちかけたのは、シモンリール様です。妹思いのあの方が相手では、選択肢は自ずと決まってしまうと
思いませんか?」
もってまわった言い方でローゼンワートは答えた。これにはさすがにグネギヴィットもぎょっとした。
「元締めの片割れは兄上なのか!?」
「そういうことになりますね。あの方にしてみれば、願掛けにも近いお心持ちでいらしたのかもしれませんが――。
いかがなさいました?」
「気にしなくていい。兄上のなさり様に、少し眩暈がしただけだから」
額を押さえるグネギヴィットに対して、ローゼンワートはあたかも自分のことであるかのように得意げに胸を張ってみせた。
「サリフォール家の狸の親玉は、シモンリール様ですよ、グネギヴィット様。
ご病床に就かれていても、あの方は間違いなく一門のご当主でいらっしゃいます」
「賭け事の元締めと、公爵家の当主の役割に一体何の係わりがある? お家騒動の火が点きかけているところに、
当主が油を注ぐような真似をしてどうするのだ」
それは本来兄にすべき質問だが、今ここにいないシモンリールを問い詰めることは叶わない。
闘病中の主君に代わってローゼンワートは首を捻った。
「さて。滅多なことではご本心を明かされませんので、これは私の勝手な憶測に過ぎませんが、
シモンリール様はグネギヴィット様が王室にお輿入れになると仮定して、皆様の動向を探っておられたのではないかと。
その辺りの事情には、ソリアートンの方が精通しておりましょうが、私利私欲にばかり囚われた一門の結束の脆さには、
酷く落胆しておいでですよ」
「確かに脆いな。兄上の病と、わたくしの縁談の噂だけで簡単に揺らぐとは、情けないくらいに脆すぎるぞ」
兄の嘆きが、グネギヴィットには容易く想像できた。嘆きを通り越して、いっそ呆れ果てているのではないかとも思う。
「一門の端くれと致しましては、実に耳が痛いご指摘ですね」
自嘲するローゼンワートに、グネギヴィットは考え深げな眼差しを向けた。
「叔父上も皆も、アレットを兄上の代わりとするのはどうやら不服なようだね。わたくしとアレットでは一体何が違う?
ローゼンワート、忌憚のない意見を聞かせて欲しい」
「そうですね……。数年後に、成人を迎えられてからの話であればいざ知らず、アレグリット様はまだ幼く、
失礼を承知で申し上げれば、いささかご病弱なお嬢様でもいらっしゃいます。私自身はシモンリール様、グネギヴィット様に
相対するのと変わりなく、アレグリット様にも真心込めてお仕えする所存でございますが、このところすっかり嫌われ者ですからね。
今になって過去の醜聞を蒸し返しておられる方もおいでですし、私があの方を傀儡にするのではないかと疑念されていることも
また、遺憾ながら皆様にご不満を抱かせている要因であるのかもしれません」
慎重に言葉を連ねながら、答えるローゼンワートの顔つきは真剣だった。述べられた内容に引っかかりを感じて、
グネギヴィットは首を傾げる。
「過去の醜聞……? お前が母上の愛人で、アレットの実の父親ではないかというやつか?」
「ええ、それです」
「そんな根も葉もない――こともないが、お前と母上の関係は、結局のところ、お前の一方的な片想いの域を出なかったのだろう?」
「ええ。ですからこそ、マルグリット様は私にとって永遠の御方です」
叶えられなかった遠き日の恋の想い出に陶酔をするように、ローゼンワートは唇に甘く微笑をのぼらせた。
「そんなことは聞いていない! お前の不道義な恋慕のせいで、アレットにいつまでも尾を引く瑕がついたではないか。
どうしてくれる!」
「責任を取れとおっしゃるなら、いつでもアレグリット様を貰い受けさせて頂きますよ。私とあの方が親子だという疑惑も
否定できますし、一石二鳥でしょう」
「お前その……、色々な意味で変質的な発想はどうにかならんのか?」
「本気ですのに」
「なおさら悪い」
憮然とするグネギヴィットに、ローゼンワートは口調ばかりは穏やかに言い渡した。
「私の邪念や世間の悪意から、アレグリット様をお守りになりたいならば、あなたご自身がしっかりとなさることです。
あまり考えたくはございませんが、万が一にもシモンリール様のご快気が望めぬ場合、サリフォール家の一門を取り仕切り
束ねられる御方は、グネギヴィット様、あなたをおいて他にはいらっしゃらないでしょう」
不意に水を向けられて、グネギヴィットは困惑する。
「それはいささか誇張が過ぎないか? 母上に惚れた贔屓目でわたくしを買い被るな」
「あなたにご自覚がなくとも、自ずと周囲が認めることになりましょう。ところで、長らく私と二人で密室に籠りきりでは、
下世話な方々に不愉快な噂を立てて欲しいと言っているようなものですよ。仕事も溜まっていることですし、そろそろ官たちを
呼び戻してよろしいでしょうか?」
やんわりとした忠告であったが、ローゼンワートの懸念はもっともなことである。たとえそれが不当な言いがかりであっても、
王太子から求婚を受けている今、グネギヴィットに色恋の醜聞はご法度だ。
「そうだね。気分直しにお茶も用意させてくれると嬉しい」
「畏まりました。それではすぐに申し付けると致しましょう」
にこやかに諾って、ローゼンワートは秘書室に通じる扉へ向かった。グネギヴィットは軽く肩を揉んで姿勢を正すと、気を取り直して執務を再開することにした。