黒衣の女公爵  


第八章 「新年」 1


 行く年はせわしなく暮れ、新しい年は粛々と明けた。
 エトワ州公の年始顔見世は、州城南棟から前庭に張り出した式典用のバルコニーで、元日の正午より執り行われることになっている。
 準備を終えて、グネギヴィットはバルコニーに続く控室でその時を待っていた。城の前庭には既に多くの民が集まっているようで、群衆のざわめきは時折、この部屋の窓という窓、 バルコニーへの扉に嵌めこまれた色鮮やかなステンドグラスを震撼させる。
 慣れた行事であると高を括っていた。公爵令嬢でいた頃は式典の華として、ただ求められる微笑みを振り撒いていればよかった――。
 けれども父でも兄でもなく自分自身が州公であるという事実は、今さらながらグネギヴィットに重くのしかかっていた。州政に対する率直な民意というものを、これから肌をもって知ることになるのだと考えると、 身が竦むような心地がする。


*****


「式の手順は以上となります。何かご質問はございますか?」
「ないよ」
 確認をするローゼンワートにグネギヴィットは上の空で相槌を打った。細部まで書き込まれた式次書を、とうとうと読み上げる彼の声は右から左へと抜けてゆき、正直なところろくに聴いてはいなかった。
「心ここに在らずといった風情でいらっしゃいましたが、本当に大丈夫ですか?」
「そう見えたならば下がってくれ。今お前を構ってやれるような余裕はない」
 横座りで長椅子にもたれながら、グネギヴィットは追い払うように手を振った。そのつれない態度にローゼンワートは苦笑する。
「そう邪険になさらずとも。久方ぶりに麗しの『マイナールの白百合』に戻られているのですから、常日頃の働きに免じて、今しばらくお近くで観賞させては頂けませんか?」
 今日のグネギヴィットは喪服とはいえ、品格とともに女の色香を漂わせた貴婦人の装いである。ローゼンワートの目の色に邪なものを嗅ぎ取って、グネギヴィットは黒いレースのヴェールの奥から冷やかな眼差しを 投げかけた。
「世迷い事は大概にしておきなさい。お前にただ見られていると、頭の中で何をされているかわかったものではないから気分が悪い」
「心外ですね。あなたはマルグリット様が残された形見の姫でいらっしゃる。ご幼少の頃より、下にもおかぬ扱いで崇拝申し上げておりますのに」
 ローゼンワートは恨めしげに訴える。グネギヴィットは呆れ返った。
「お前の崇拝など、母上に心酔していた時代から真っ白なものではないだろう」
「そのあたりのことは、ご想像にお任せすると致しましょう。若気の至りとお見逃し頂ければ幸いに存じますが」
「お前の若気は、一体幾つになったら抜けるものやら」
「一門の方々に、若造と謗(そし)られる限りは若いつもりでおりましょう」
 当年とって三十五歳。いけしゃあしゃあと受け答えするローゼンワートの声にノックの音が被さる。侍女に誰可をさせると、護衛官がアレグリットの到着を告げた。グネギヴィットの答えが否やであろう筈はなく、 訪れた妹姫の為に扉が開かれる。
「お入り、アレット。待っていたよ」
「はい。遅くなりまして、お姉様」
 淑やかにお辞儀をするアレグリットを、ローゼンワートは当然の役目と出迎えに立った。大人扱いが嬉しいアレグリットは、ローゼンワートのエスコートを受けると、その顔を見上げてにっこりと微笑んだ。
「新年おめでとう、ローゼンワート」
 アレグリットは社交界への披露目に向けて伸ばしかけの黒髪を、今日は少し背伸びをして高い位置に結い、露わにした華奢な首には花の形に留めたリボンを巻いていた。姉同様に黒ずくめだが、 盛装をしたアレグリットに可愛らしく挨拶をされ、ローゼンワートは目映ゆげに目を細める。
「新年おめでとうございます、アレグリット様。ああ、なんと母君に似ていらしたのでしょう……。しばらくお目通りせぬうちに一段とろうたけた淑女になられましたね」
「まあローゼンたら、軽薄なお口ですこと。通り一遍のお世辞には騙されませんことよ」
 親子ほども年の離れたアレグリットにあっさりとふられて、さしものローゼンワートも言に詰まった様子である。グネギヴィットは意地悪く追い打ちをかけた。
「残念だったね、ローゼンワート」
「いえ……、高嶺の姫君はこうでなくては。ただ、アレグリット様は誤解していらっしゃる。先ほどの言葉、私は本心から申し上げたのだということは言明しておきましょう」
「あらそうでしたの?」
「そう、だからこそむやみやたらに近付いてはいけないよ。ローゼンワートは危ない下心の塊なのだから」
「ま、怖い」
 グネギヴィットが半ば以上本気で脅すので、アレグリットは案内された長椅子の背に後退り、大げさに怯えたふりをしてみせた。姉妹の息はぴったりで小憎らしくもほほえましく、 ローゼンワートは肩をすくめる。
「やれやれ……、お二人がかりで苛められてしまっては退散するしかありませんね。それでは私は官たちを監督して参りますので、どうぞ時間までお寛ぎ下さい」
「ああ」
 気を取り直して辞去をするローゼンワートにグネギヴィットは軽く頷く。アレグリットは脇に控えた侍女たちを見渡した。
「お前たちもみなお下がり。わたくしお姉様と内緒のお話がありますの」
「はい」

 アレグリットの意を酌んで、閉ざされた部屋には姉妹だけが残された。ふうと一つ吐息をついて、グネギヴィットは改めて妹を見やる。
「人払いなどをして、どうしたの? アレット」
「どうしたの? は、わたくしの方からお尋ねしたいところですわ、お姉様」
 顰め面をしてアレグリットは席を立ち、グネギヴィットの傍らに移動した。そうしてそっと手を伸べて、グネギヴィットが被っている黒いヴェールを捲り上げる。
「アレット……?」
「表情が硬くていらっしゃいましてよ、お姉様。民はお姉様のお顔を拝見しに来るのです。このようなもので隠してしまわずに、笑って下さらなくてはなりませんのに」
 咎められてグネギヴィットの眼差しがたじろぐ。アレグリットはグネギヴィットの瞳を覗き込みながら、その頬を揉みほぐすように両手で挟み込んだ。動揺から顕著になった姉の慄きが、 アレグリットの手のひらに伝わってくる。
「もしも、お一人でおられる方が落ち着かれるのでしたら、わたくしもこの後すぐに退出致します」
「そのようなことはないよ、アレット、お前が一緒にいてくれた方がいい。ここに座って、少しだけ休ませてくれる……?」
「はい」
 隣にちょこなんと腰かけたアレグリットの肩に、グネギヴィットは目を閉じて、こてりと頭をもたせかけた。寄りかかるには小さすぎる線の細い身体だが、愛しい者の温もりほど安心を与えてくれるものはない。
「参ったね……。よもやお前に気遣われてしまうとは思わなかった」
「妹ですもの、お姉様の。わたくしいつまでもお荷物のまま、庇護される一方なのは嫌ですわ」
「そう……。大きくなったのだね、本当に……」
 姉の目に六つ年下の妹は幾つになっても稚くて、守るべき存在でありこそすれ、頼ることなど考えたこともなかった。
 だが、悲しみを乗り越える中で人の心は急速に育つものだ。グネギヴィットの知らぬ間に、アレグリットは長い階段を駆け上がるようにして、姉の背を追いかけて来たのだろう。 大人になり急ぐ妹の成長を、グネギヴィットは嬉しくも切なくも思う。


*****


 ややあって、室内の空気を探るようにしながら、遠慮がちに扉がおとなわれた。侍女たちがみな外に出されているのを見て取って、訪問者は自分から名乗りを上げる。
「お嬢様、ソリアートンでございます」
 グネギヴィットが当主を継いでからも、サリフォール公爵家の生き字引のような、この老執事の呼びかけ方は変わることがなかった。グネギヴィットは居住まいを正して、扉の向こうのソリアートンに声を掛ける。
「お入りなさい、ソリアートン。但し長居は無用」
「はい、失礼致します」
 招き入れられたソリアートンが押してきたワゴンには、大輪の椿を活けた花瓶が載せられていた。
「まあ、綺麗……!」
 瞳を輝かせたアレグリットが感嘆の声を上げる。瞬間心に結ばれた庭師の名を、グネギヴィットはどうにか飲み込んだ。
「それは?」
「はい、庭師長から是非とも、グネギヴィット様にお贈りしたいとの申し入れがありまして、僅かなりともお慰めになればと思いお届けした次第です」
「そう――」
 何食わぬふりをしてグネギヴィットは答えた。けれど高鳴る心は反発していた。違う、本当の贈り主は、きっと――、と。
 それはグネギヴィットの直感であった。冬の神の象徴とされるオルディンタリジン【冬男神の椿】は、シモンリールがこよなく愛した花だ。その事実を、『彼』には教えたことがある。 見せかけよりも、ずっと脆い自分を『彼』には晒してしまったことがある。この花が、今日この時のグネギヴィットをどれほど勇気づけるものか、おそらく『彼』は気づいていた筈だ――。
「お近くへお運びしてもよろしいですか?」
「お願い」
 ソリアートンの手で、テーブルの上にごとりと花瓶が据えられる。雪の中で花開いたオルディンタリジンは、暗紫色の花弁も濃緑の葉も見るからに瑞々しく、見事なまでに美しかった。様々な感情がないまぜになり、 グネギヴィットの息は詰まりそうになる。
「兄、上……」
 震える手を花に伸ばして、グネギヴィットは呟いた。柔らかな声でガヴィと呼んで、穏やかに、静かに、グネギヴィットを導き続けてくれたシモンリール。グネギヴィットの記憶の中で、 亡き兄はいつも優しく微笑んでいる。
 胸に迫り来る兄への慕わしさに、猛烈な勢いで涙が湧き上がる。感極まったグネギヴィットの腕を、アレグリットがきゅっと掴んだ。
「アレット……?」
「わたくしがおります、お姉様。城の者たちもこうして支えてくれているのです。それに――」
 アレグリットもまた黒い瞳を涙で潤ませて、崇高な神の使いのように清らかに微笑んだ。
「お兄様も、お父様もお母様も、今日のお姉様のこと、神々とご一緒に見守っていて下さいますわ」


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