黒衣の女公爵  


第十二章 「蕾姫」 4


「殿、下……?」
「ああ」
 呆然と立ちすくむアレグリットに、ユーディスディランは大きな足取りで近づいた。逢引きの邪魔にならぬようにとでも気を回したのか、アレグリットのために手燭を掲げていた近衛騎士が、 到着した主君に頭(こうべ)を垂れて静かに脇へと退く。
「どうして、こちらへ……?」
 アレグリットはここにある現実を確かめでもするように、ユーディスディランを映した瞳をぱちぱちとしばたかせた。部屋の扉を閉ざしたキュべリエールは、部下にそのまま照明役に徹しているよう手振りで 指示を出し、自身は外にも気を払いながら、扉の傍らで薄闇に沈む。
「それは私の台詞でね。私の騎士を無断で使って、舞踏会を抜け出し、このような場所に入り込んでいるなど――。アレグリット、いけない子だ。あなたは誰から、どうやって、『硝子の鍵』を盗み出したのかな?」
「盗む……? いえそんな、わたくしは、陛下からお許しを頂いてこのお部屋に……。わたくしはそんなにも、悪いことをしたのでしょうか……?」
 顰め面をした王太子に突如責められて、アレグリットは小さな頭(かぶり)をふるふると横に振り、閉じた扇を胸元でまごまごと握り締めた。黒曜石の瞳が不安の色を湛えながら、けれど一片の疾しさもなく、 懸命にユーディスディランを見つめ返してくる。
「陛下――? ではあなたに、『硝子の鍵』を渡したのは私の父というわけかな?」
「はい……。国王陛下とのお話の中で、母の姿を覚えていないのだと申し上げましたら、お母様の、お若い頃の肖像を見せて下さると陛下が……。他の人には内緒で、近衛二番隊の騎士に合言葉を言えば、 お母様の絵のある場所まで送ってくれるからとおっしゃられて……、それでわたくし――」
 ユーディスディランの尋問に答え、せつせつと訴えるアレグリットの背後には、その申し開きに嘘がないことを裏付けるように、彼女の母親である王姉マルグリットの全身像が飾られていた。
 それはちょうど目の前の少女が、成人した暁にはこうなるのではないかと期待させる、匂いやかに気高く、すらりとしてたおやかな――、美麗な王女の十八歳の肖像である。
「……なるほど、合点がいった。あなたにはいささかの罪過もないようだね。アレグリット、まずはあなたを非難し、問責してしまったことをお詫びしよう。それからあなたの最初の疑問に、 私もお答えしたいと思うのだが……。陛下はどうやら、『硝子の鍵』について、あなたに肝心なことをお話ししていないようだ」
 自分の父親のことである。ユーディスディランにはハイエルラント四世の考えがすぐに読めた。国王がアレグリットに詳しくを語らなかったのは、彼女に余計な気を配らせぬためであり、今のようにユーディスディランに詰め寄られた場合にも、知らぬ方がよかろうと判断したからに違いない。 自分や彼女に対して悪意があったわけではなく、母親の記憶を持たないアレグリットを不憫に思って、なおかつ彼女の案内役に、安全確実な人材をつけてやりたくて、『硝子の鍵』を活用してみたといったところだろう。
 真相を知れば咎めようのない情味ある話で、目くじらを立てるのは狭量な気がするが、ユーディスディランにしてみれば、全くあの父王ときたら、暢気者のくせに人騒がせな――と嘆息したい気分である。
「周知の通り、近衛二番隊は私の専属だ。その隊長であるキュべリエールが、あなたをこちらへお連れした後、私を迎えに来たのは暗黙の了解といったところでね……。今宵は陛下が出来心から、変則的な理由を つけてあなたにお渡ししてしまったようだが、『硝子の鍵』は本当ならば、独身の王子であるこの私が、特別な人と、特別な時を過ごすために使うものだから」
 ユーディスディランの視界の中で、アレグリットの蒼ざめていた頬にかあっと赤みが上った。天窓からの星明かりと、燭台の炎に頼るほの暗さの中でも、はっきりそうと見受けられるほどに。
「し、知らぬこととはいえ……、お騒がせを、致しました……。あの、わたくしからキュべリエール様に、合言葉を教えて下さったのは陛下でいらっしゃると、一言でもお断りしておけばよかったですね……?」
 決して落ち度があったわけではないのに、アレグリットは扇を広げ、その内側に隠れながら、消え入りそうな風情で謝罪をした。ユーディスディランはそんな彼女を苛めているようであるのが忍びなく、 意図して優しく表情を和らげた。
「私もちょうど、大広間の喧噪から逃れて、静かな場所で休息をしたかったところでね。舞踏の輪から抜ける、絶好の口実となってくれたからよしとしよう。――ああ、それよりもアレグリット、 キュべリエールから人酔いをなさっていたと聞いたのだが、今は、ご気分は?」
 ふとアレグリットが、キュべリエールと行動を共にしたきっかけを思い出して、ユーディスディランはその容態を窺った。アレグリットは頬を火照らせたまま、けれど幾分気を取り直した様子で、 ドレスを摘みちょこんとお辞儀をした。
「ありがとうございます。それはもう、平気です……。こちらへ参りますのに途中からは、キュべリエール様が『運んで』下さいましたし、胸のむかつきが納まるまで、露台に出て、風に当てても頂きましたから」
「ほう、それは……。キュべリエールがお役に立てたようでなによりだ」
 キュべリエールはユーディスディランが考えていた以上の手厚さで、アレグリットに接し、『はりきってご案内』とやらをしたらしい。ちらりと視線を向けると、キュべリエールは悪さを見つけられた少年のような 顔つきをして、主君に片目を瞑って見せた。
 若葉の姫を、自分好みの淑女に育て上げて妻に――というのは、案外キュべリエール自身の願望なのかもしれない。アレグリットはユーディスディランの目にも、大人しやかで、清純な印象の美少女で、キュべリエールが好き心をくすぐられた 気持ちはわからないでもないが……。主君の気に入りの姫――実際は誤解であったわけだが――を相手に、点数稼ぎをするとはいい度胸だ。

「先触れもなくこちらに踏み込んで、不用意にあなたを怖がらせてしまったようだが、母君の肖像画は、十分に鑑賞できたのかな?」
「ええ、堪能させて頂きました。これと教えて頂いた時、お姉様を描いた絵かと驚きましたわ……。見られてとても幸せでした」
 アレグリットは背後を振り仰ぎ、母恋しげにマルグリットの肖像画を見上げた。『デレスの百合』と、近隣諸国にまでもその名を轟かせていた美貌の伯母のことは、ユーディスディランも僅かながら覚えている。
「伯母上は子供心にもお美しくて、陳腐な表現だが、生まれ持った星の輝きで周囲を照らすような御方だった。この絵は確かに、公爵令嬢時代のサリフォール公にも似ているが、あなたの未来予想図のよう でもあるね」
「お上手ですのね、殿下は。ですがこのように――、お母様のように、いつかなれると嬉しいですわ」
 ユーディスディランは本心を述べたつもりだったが、アレグリットは社交辞令と受け止めたらしい。当たり障りなく流して、淡く浮かんだ微笑みをすぐに消し、身体ごとユーディスディランに向き直ると遠慮がちに 尋ねた。
「殿下は……、ここにある肖像の主がどなたであるのかを、全て把握していらっしゃるのですか?」
「それはまあ、みなデルディリーク家の先人だからね、先祖に対する礼儀としておさえている。アレグリットには伯母上の他に、誰か気になる人物でもおいでかな?」
 デルディリーク家――、王太子ユーディスディランの正式名は、ユーディスディラン・デルディスティ・ドゥ・デルディリークという。 『ユーディスディラン』が名。『デルディスティ』が王族のみが持つ神聖名。『ドゥ・デルディリーク』が姓で、ドゥリミエンの略である『ドゥ』は王家の意味を持つ。ちなみに公爵家を示す『デュ』はデュラリエンの略だ。
「はい、あの、お一人だけ、お伺いしたいのですがよろしいですか?」
「どうぞ、姫君」
 ユーディスディランの快諾を得て、アレグリットはいそいそとした足取りで動き、意志の強そうな黒い瞳で彼方を見据えている、壮年の王を描いた肖像の前に立った。
「それでは殿下、こちらの方は一体どなたなのでしょう? 亡くなったお兄様を丈夫にして、それから上手に老けさせれば、この方のようになるのではないかと思うのですけれど……」
 老け方に、上手も下手もあるのだろうか――? アレグリットの質問にユーディスディランは笑いかけて、あるかもしれないと思い直した。今はまだ若さが第一に物を言っているが、人の顔には経験という 名の皺が刻まれてゆくという。ここに置いて、後世に残す肖像を描かせる頃には、かの王のように、よい面構えになっていたいものだと思う。
「ああ、それは、先代国王アレフキース二世の肖像だ。私の、それにあなた方ご兄妹(きょうだい)にも祖父に当たる方だから、そういえばシモンリールの面影があるかもしれないね。ついでに向かって右隣の、 ふくよかな女性がべアトリスカ王太后。ご存知かもしれないがお祖母様は、北の大国ロジェンターの王女でいらした」
「そうですか、この方々が殿下とわたくしのお祖父様とお祖母様……。わたくしにも半分だけ、王室の血が流れているのかと思うと不思議な気持ちです」
 感慨深げなアレグリットと祖父の肖像を見比べて、ユーディスディランは目をすがめた。
「私からすればあなたの姿は、むしろデルディリーク家の典型だと思うけれどね。お顔立ちもそうだが……、黒髪に黒い瞳は、始祖王サリュートと同じだ」
 祖父と父と、ユーディスディランの前には二代続いて、他国の王女を王后に迎え入れた。父王もまた母親似ということもあり、直系の王子でありながら、自分の容貌は極めて異国的だとユーディスディランは 思っている。別段に支障があるわけでもないので、気にすることなく割り切っているが。
「始祖王サリュート……? 英雄王の肖像もあるのですか?」
「ああ」
 首肯してユーディスディランは、部屋の正面上部に掲げられた古い絵画を指差した。つられて眼差しを巡らせたアレグリットのため、照明役の騎士がきびきびと移動して、主君の指の先を手燭で照らし出す――。
「まあ……!」
 揺れる炎の明かりの中、浮かび上がったその大きな絵に、アレグリットは感嘆した。
 それはデレス建国の英雄を描いた壮大な名画で、多分に神話的、叙事詩的であった。率いる軍勢を鼓舞するように、棹立ちになった青毛の馬を勇ましく御しながら、抜き身の剣を振り上げた甲冑姿の美丈夫は、 象徴的なサリュートキュリスト【夏男神の百合】を背景に、勝利の神サリュートの化身の如く描かれていた。
「素晴らしいですね……! 美々しくて、雄々しくて、なんて見事なのでしょう……! どの絵も生きているようですが、この絵の躍動感は格別です!」
 興奮と感動で、アレグリットの瞳は煌いていた。予想を超えた反応に、ユーディスディランの口元も綻ぶ。
「夜の肖像の間は、気味が悪いと忌避する者が多いのだが、あなたはまるで怯えた風もないね。アレグリットは絵がお好きなのかな?」
「ええ。絵画観賞は大好きですし、手慰みに絵筆を取ることもありますわ。あの……、こんなに素敵な場所ですのに、怯える方がおいでなのはどうしてでしょう?」
 ユーディスディランに視線を戻して、アレグリットは不思議そうに問うた。ユーディスディランはごまかさず、ありていに答えることにした。
「それは、ここにある肖像の多くに、死者の魂が宿っているように見えるからだろう。出来がよすぎるのも良し悪しでね、余所見をしている間に首の角度が変わっていたとか、影が抜け出して歩いていたとか、 部屋に入った途端、昔の王に一斉に睨まれたとか……。真偽は定かではないが、それらしい流言が後を絶たないのだよ」
 言われてみればその雰囲気はありありで、さすがに背筋が冷え出してきたのだろう、アレグリットは身を縮めて小さく息を飲んだ。
「まあ、怖いこと……。ですがその、歴代陛下に睨まれたとおっしゃった方は、よほど後ろ暗いお心を抱えておいでだったのでしょうね。真実であれ錯覚であれ、同情はできませんわ」
「面白い解釈だね、どうしてそのように思われるのかな?」
「簡単なことですわ。二心なき忠誠を王家に捧げておりましたなら、きっと祟られることはありません。微笑んで頂けこそすれ、睨まれる道理はないと思いますもの」
「確かに筋は通っているね――、おや?」
 ユーディスディランは不意に強張った顔つきをして、アレグリットには見えない方向の、壁の一角に視線を止めた。
「どうかされまして?」
「いや、あなたの答弁に感銘を受けたのだろう。今、我が父上の肖像が、にっこり笑って瞬きを――」
「きゃあっ!」
 真面目くさって戯れ言を述べたユーディスディランの身体に、悲鳴をあげてアレグリットが飛び付いてきた。漂う香りは控え目に甘酸っぱく、ふわりと柔く軽やかな少女の感触が心地よい。
「なるほど、これは楽しめるかもしれない……」
 反射的にアレグリットを抱き止めて、ユーディスディランは呟いていた。肖像の間に『百の瞳が千夜瞬く追想の間』という隠語をつけた先人の気持ちが、そこはかとなくわかった気がしたのだ。
 まだ十五歳のアレグリットを相手に、それではその、愛くるしい唇から美味しくいただこう、といういかがわしい気分にはならないが、自分にすがり震えている姿には、単純に守ってやりたいような愛しさが湧く。
 そういえば、グネギヴィットはユーディスディランに接する時、常に感情よりも理性を優先させて、こんな風に直情を露わにすることは一度もなかった。ユーディスディランが見てきたのは、権謀渦巻く社交界で、 非の打ちどころのない淑女であることを己に課していた、グネギヴィットの表層に過ぎず……、今となっては、見知らぬ顔の方が多かったのではないかとも思う。
 だが、自分の全てを曝け出してこなかったのは、ユーディスディランも同じことだ。グネギヴィットが初な少女だった時代には、ユーディスディランも未熟な少年だった。一足先に大人になり、 彼女に対する恋心を自覚した後は、僅かなりとも良く思われたくて己を虚飾した。
 恋の駆け引きはつまるところ、男と女の騙し合いであるのかもしれない。国や家を背負わされた、王子と公女であればなおさらのこと――。
 けれどもユーディスディランは、多数の徒花(あだばな)に囲まれる中で、そうあることに疲れ果てていた。真実を眩ませる仮面の微笑みよりも、今は、雪解けの清水のように透き通った誠が欲しい。


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