黒衣の女公爵  


第十六章 「露見」 3


「そうだね、しばらくはね」
「しばらく?」
「うん。お前に聞いてもらいたいことがね、おそらく相当に溜まるだろうから、ザボージュが帰ったら、またルアンに会いに来るよ」
「はいぃ?」
 思いがけないグネギヴィットの回答に、ルアンは意表を突かれて間の抜けた返事をしてしまった。
「何? 会いに来てはいけないの?」
「いえっ、そんなことはないんですけど、俺は……。世間様にはいいんですかね?」
「駄目なものは今でも同じ。今さらだろう」
「はあ、そんなもんですか」
 それでもやはり、この夏を経ると、決定的に違ってしまうものがあるだろう。それはグネギヴィットが持ち出す話題であり、そして聞き役に回るルアンの気構えだ。
 ルアンがグネギヴィットの幸せを願う気持ちに偽りは無い。自分には、逆立ちをしたってできないことだから、グネギヴィットの婿となる男には、誠実に彼女を愛し、 世界で一番幸福にして欲しい。
 だがもしも、グネギヴィットから聞かせられるのが、たとえばえんえん続く惚気話になるのだとしたら、果たして自分は耐えきれるだろうか――?
 無理。
 自問自答を即答で終えてしまい、呻きにも似た溜め息がルアンの口から洩れた。

「ルアン」
「……はい」
 しくじりに、ルアンはすぐさま気付いたが、後の祭りというものだ。グネギヴィットはひたとルアンの目を見据えると、完全なる命令口調で彼を追及した。
「今日のお前はやっぱりおかしい。ひどく元気が無いようだし、今の大きな溜め息は何? 気になって仕様がないから理由を吐きなさい。――三度は聞かせるな」
「う……」
 当分『気晴らし』をできなくなるという前提もあり、グネギヴィットの姿勢はかなり強硬だった。吐かないと襟元を締め上げられてしまいそうである。
 あの苦渋の塊のような溜め息を聞かれてしまっては、言い逃れもできず……、いやそもそも、正直者のルアンが、上手な嘘をつける筈はないわけで……、 自分のうかつさを呪いながらルアンは、渋々と白状を開始した。
「俺は多分……」
「うん」
「多分、ですね……、直接ふられたわけじゃあないですけど、かなり重度な失恋ってやつをしたらしいです」
「失恋? まるで知らなかったな、ルアンにはそんな相手がいたのか!」
 グネギヴィットはどういうわけか、いたく衝撃を受けたような、彼女の方が傷つけられたような、非常に驚いた顔つきをした。
 しかしそれは当たり前のこと。知られていたならルアンの方が驚く。他の誰でもなく、グネギヴィット、今目の前にいる美しい女主人に向けた禁断の恋心を、 ルアンはずっと胸に秘めてきたのだから。
「そんな、公爵様に、わざわざお知らせするようなことじゃありませんし、惚れちまった最初から、どうにもなりようのない片想いなのはわかり切っていたことで。 ……わかり切っていたくせに、いざそうなると馬鹿みたいに落ち込んで、参っている自分に参っちまってるだけですよ」
 ここしばらくのルアンが、グネギヴィットとの約束をすっぽかしてきたのは、本当は仕事のせいではなかった。忙しいには忙しいに違いなかったが、 庭師長は冬支度の時ほどにルアンを縛っておらず、毎日州府の終業の鐘が聞こえるような時刻になると、後は自主的に働くよう言い付けてルアンを放任していた。
 それからもし、約束の場所に向かっていたならば、ちょうど良くグネギヴィットを待てた筈であった。今日のように。毎日でも。けれどもそれをしなかった―― 正確には、できなかった――のは、グネギヴィットの縁談が、ルアンの心にずしりと重く応えていたからだ。
「そう……だったのか、辛いな……」
「ですねえ」
 自らも、辛い恋の経験をしたグネギヴィットは、心の底から同情をしてくれているようだった。痛みを感じたように伏し目がちに視線を流して、 それから上目でルアンの顔を見直した。
「泣くか?」
「泣きませんよ。てか、泣けませんよ。公爵様の目の前で」
 失恋をした当の相手の前で男が泣くなんて、あまりにも情けなさ過ぎるだろう。グネギヴィットの問いかけに、ルアンは力なくから笑いした。
「そうか残念だな。涙は気持ちを楽にしてくれるものだから、以前にお前がしてくれたように、今度はわたくしが、お前に泣く胸を貸してやろうと思ったのに」
「む、胸って……」
 思わずルアンは、グネギヴィットのその部分を、まじまじと凝視してしまった。
 グネギヴィットが女性なのは周知の事実なので、彼女は男装だからといって、身体の丸みを不自然に潰したりはしていない。夏物の薄い衣服を、 品よく押し上げている双丘はどんなにか白く柔らかいだろう。そんな気持ちの良さそうなこと、伏してでもお願いしてみたい――。
 などと、不届きなことを考えていたのがだだ漏れていたのだろう。グネギヴィットの両腕が、ルアンの目から庇うように己の胸元を覆った。
「やっぱりやめた。絶対に貸してやらない。ルアン! なんて目つきでどこを見ているんだ!」
「やっ、そのっ……」
 今までにない咎められ方にルアンは焦った。グネギヴィットは相当不快になったらしく、険しく眉根を寄せてけんけんと続けた。
「わたくしはお前の主人だぞ。それに今は、こんな格好をしているのにおかまいなしだなんて、ローゼンワートかお前は!」
 胸を隠す両腕に力を込め、グネギヴィットは半身に身体を引きながら、真っ赤になってルアンを睨みつけた。
「いやっ、ローゼンワート様はどうなんだか知りませんけどね――」
 ルアンは彼史上最速の早さで頭を掻きまわし、手拭いからはみ出した髪をむしるように掴み、なまなかな言い訳では、よけいに激昂しそうなグネギヴィットに どうしようもなくなって――。
 そしてとうとう、ばちんと大切にしていたものを撥ね飛ばしてしまった。心の箍(たが)である。
「だーもうっ! あなたの服装なんてどうでもいいんだ! しょうがないじゃありませんか俺だって男です! いつ見ても綺麗だなーとか、あー畜生、 困るよなあ可愛いなあとか、常日頃思わされているような公爵様に、あんな嬉しがらせを言われたら、いけない想像くらいはしちまいますよ!」
「ルアンお前は――そんな風にわたくしを見ていたのか」
 グネギヴィットにとって、ルアンのその激白は、正に晴天の霹靂だった。急激に力を失くしたグネギヴィットの腕が、だらりと身体の両側に落ちる。
「……そうですよ。公爵様にとっちゃあ俺なんて、しゃべる庭木に毛が生えた、程度のもんなんでしょうけれど。俺にとっては……、どんな格好をなさっていようと、 どれだけ男めかしていなされようと、いつだって……、あなたは綺麗で大事なご主人様で、誰より可愛い女の人なんだ」
 ――ガヴィがいかに男ぶってみせようとも、真心からあなたを望まれる殿方には、常に女と見えているものです。
 ルアンの告白に被せるようにして、メルグリンデの言葉がふと、グネギヴィットの脳裏を過った。こんな時に、そんなことを思い出す自分自身にも腹が立ち、 グネギヴィットの頭は沸騰した。
「白々しいことを言うな! 最初にわたくしと会った時には、わたくしが女と知ってあんなに驚いていたくせに!」
「あれは――、男の服を着る女性がいるだなんて、知らなかったですよ!」
「だから?」
「だからって……」
 だから、一体、何だというのか? グネギヴィットの頭はぐるぐると混乱する。失恋をするような想い人がいたくせに、ルアンは突然何を言い出すのか?  いけない想像って何を想像されたのか? ルアンにとって自分が女なら、ルアンは自分にとって『殿方』の範疇に入るのか? いや、そんなこと、あってはいけない、 ありえないだろう!!
「ルアン! この、大馬鹿者っ!!」
 激しい罵りの言葉を残して、グネギヴィットは身を翻して駆け出していった。
「公爵様!!」
 ルアンは急いで追いかけた――い、ところだが、そんな目立った行動がとれるはずもない。呼び止めようとした自分の大声にぎくりとして、 慌てて周囲を窺うていたらくである。
「はあああ」
 大きく息を吐き出しながら、ルアンは痛む頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「何……やってんだ、俺は……」
 ああ、とうとう、ぶちまけてしまった――。しかもこんな、最低最悪な形でだ……。
 己の愚かしさに呆れかえるが、一人たそがれていてもどうしようもない。とりあえずは仕事に戻ろうと、のろのろと顔を上げたところで、短く声が出た。
「あ」
 ルアンの視線の先にあるのは、つい先ほどまで、グネギヴィットを木陰で涼ませていた青々とした立木。そしてそこに残されている黒色の――。
「日傘……」


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