黒衣の女公爵  


第十九章 「駆引」 4


「謁見は、もう終わられたのですか?」
 潜め声で確認を取るアレグリットに、ユーディスディランは、読みかけの本を自分の机に伏せて答えた。
「先ほどね、おかげで今は、こうしてのんびりとしていられる」
「舟遊びに、向かわれなくてよろしいのですか? 殿下の不参加をお聞きになって、みなさまとても残念がっておいででした。 殿下のお馬でしたら、今からでもお茶の時間までには間に合うのではありません?」
 王后とその一行は、王都クルプワ近郊の、湖のある景勝地に出掛けている。そこは王家の狩猟用の森の中であり、湖畔には狩猟館が佇んでいた。 ユーディスディランの騎乗の腕前があれば、確かに思い立てば、気楽に合流できる位置にはある。
「距離や時間に問題はないのだが、王宮に残しているのは、キュベリエールとヘルヴォンの二人だけでね。他に頼れる近衛がいないものだから、 今の私は王宮を離れることはおろか、庭を自由に闊歩することすらままならない」
 図書室内のあちらとこちらで、遠巻きに護衛に付いている二人の近衛騎士を手振りで示しながら、今の自分の身動きの取れなさを、 ユーディスディランは嘆いてみせた。納得がいった様子で、アレグリットは喜色を押し隠すようにしながらも、返す声を僅かに弾ませる。
「まあ。他の近衛二番隊の騎士たちは、みなドロシー様のお供ですか?」
「そう。今頃私に代わって、炎天下で肉体労働をしてくれているだろう」
 ドロティーリアがあまりにごねるので、ユーディスディランはその機嫌を取るために、護衛兼端艇(ボート)の漕ぎ手として、 近衛二番隊の騎士たちをごっそりと貸し出していた。
 近衛一番隊のうち、王后付きの騎士たちも当然同行しているが、姫君たちの安全を預かる上で、一人に一人以上の護衛がいれば、 まず危険を寄せ付けることすらないだろうという危機管理の意味も、年齢層の高めな一番隊の騎士たちでは、王后の『可愛いお友達』の遊び相手を務めるのは、 厳しかろうという労いもあった。
 若手の精鋭を揃えた二番隊の騎士たちにとってもまあ、王太子妃候補に上るような、いずれ劣らぬ美姫たちと戯れられる楽しい仕事なわけで、 二人で一艘の端艇に乗って、一組二組は、恋の花でも咲かせてきてくれればいいのにと、ユーディスディランは半ば以上本気で思っている。

「そもそも、私一人でお相手をするのに、母上の『お友達』は多すぎるのだ。休みなく全員の舟漕ぎを、させられるようなことにでもなってしまったら、 一人一人と親交を深めている余裕はない上に、間違いなく腕がやられてしまうだろう。またこのような企画を提案される前に、数を絞って頂こうかと考えている所だ」
「……絞る?」
 不穏当な話題に、アレグリットの声が翳った。察さぬふりをしてユーディスディランは続ける。
「そう、例えば、母上のお茶会で、あなたの姉君の城をお訪ねしたいとおっしゃった、無邪気な姫たちの名は漏らさず私の耳に入っている。 かの姫方に退いて頂くだけでも、かなり減るだろうね」
「まあ、そのようなこと何故お知りに?」
「母上の花園に、庭番を置いているつもりはいささかもないが、王太子の私に告げ口をしてくる者には事欠かなくてね。王宮というのはそんなところだ」
 意図して集めてはいないはずなのに、王宮内の出来事について、自分の知らない噂はないのではないかと時々思う。ユーディスディランは自嘲気味に笑った。
「告げ口を真に受けて……、それを理由に排除なさるのですか?」
 アレグリットは、困惑したようにそう尋ねた。まあ確かに、真意を説かなければ、心が狭いというか嫉妬深いというか、 ずいぶん乱暴に聞こえるふるいのかけ方だろう。
「互いのためになることであるならね。私は世の姫君方の全員が、本気で私の妃になりたがっているなどと、自惚れてはいないつもりだ。 母上が選んだ妃候補の中には、心に秘めた想い人がおいでの方も、本心では私のことを毛嫌いしている姫もいるだろう。私はそのような姫たちが、 控え目に妃候補を辞退する、格好の口実となったのではないかと受け止めていてね……。母上から罰されるようなことになってしまって、 サリフォール公にはいい面の皮だったかもしれないが、女性である公への憧れを口にしたところで、深刻にとられることはないからね」
 男装が小憎らしいほど様になっているが、かつては王太子の恋人で、今はザボージュと交際していて、グネギヴィットが異性愛者であるのは歴然としているので、 姫たちが彼女に憧憬を抱くのを危ぶむ者はいない。むしろ、変な男にひっかかってしまうよりは、許婚を決めるまで、 幻の貴公子に恋したつもりになっていて欲しいというのが親心だろう。
「殿下のおっしゃるような方も、中にはおいでになるのかもしれません。ですけれどそのような方は、もしもいらっしゃっても稀でございましょう。 その場におりましたからこそ申せますが、わたくしは、場の空気で、乗り遅れまいとして、追従なさった方がほとんどだったと思います」
 ユーディスディランは今、王太子妃候補のふるい落としの相談という、本来であればその当事者の一人であるアレグリットに、すべきでない話を持ち掛けている。 王太子の見限りから、懸命に他家の姫たちを庇おうとするアレグリットに、ユーディスディランはさらなる揺さぶりをかけてみた。
「たいした意思もなく、ただ周囲に流されていたようならば、なおさらそれは良くないな。今のこの時勢に、王后のサロンに招かれていながら、 家門を負っている自覚もない姫に、王太子妃は務まるものではない。あなたもそうは思われないかな?」
「……意地悪なご質問」
「そうかな?」
「ええ。首を縦に振っても、横に振っても、殿下はわたくしにがっかりとなさるでしょう? だからどちらもできませんわ」
 きり、とした表情で、アレグリットはユーディスディランの目を真っ直ぐに捉えてそう答えた。
 首を縦に振れば他家の姫を貶めることになる。横に振れば王太子の考えを真っ向から否定することになる――。
 そのどちらも、家門を負った姫としての自覚のない答えだと、アレグリットは判断したのだろう。
 やはり幼くとも、ここにいるのはサリフォール家の姫君だ。ユーディスディランの持ち出した、会話の意図がよく読めている。 自ずと湧き上がる微笑で目元口元を緩めながら、ユーディスディランはアレグリットの瞳を見返した。
「あなたと話すのは面白いね、アレグリット。失望をしなければ、増えてゆくものは何だと思う?」
「期待、でしょうか……?」
 先ほどの鋭敏さはどこへやら、その答え通りに、小さく何かを期待しながら、アレグリットはもじもじとし始める。ずいぶんしっかりとしているようでいて、 年相応に異性に不慣れで……、大人と子供を行ったり来たりする、この落差が堪らない。
「その通り。興味、と言い換えてもいいかもしれない。ところで熱心に、今日は何の本を読まれておいでだったのかな?」

 アレグリットは頬を染めながら、書見台に置いていた本を取り上げて、わかりやすく興味を示すユーディスディランに提示して見せた。 その表紙に刻まれた異国の古語に、ユーディスディランは唸った。
「グラシア戯曲! 原書の!?」
 今日もまた凄い選択だ。十五の少女が読むにしては、ずいぶんと難解で渋い趣味である。卓上に厚い本がもう一冊あるのは……、なるほど、辞書を引いていたのか。
「ええ。先日、王后陛下にお連れ頂いた、舞台がとても素晴らしかったものですから。ですが、台詞や歌詞がまるでわからなかったのが残念で……。 訳本も読んだのですが、それだけでは物足りなくて、今から勉強しておけば、次の観劇の機会には、もっと楽しめるかと思い立ちましたの」
「そうか。王立劇場では今、本場トルイの古典歌劇団が興行中だったね。演目は何をしていたのかな?」
「赤い肌のならず者に奪い去られた、グラシア最後の大神の花嫁、エスパネルラのお話です」
「『滅びの詩(うた)』か。デレスでは問題視されないからといって、ずいぶんと過激なのを上演している」
 アレグリットの簡単な説明だけで、さらりと劇の題名を言い当てて、ユーディスディランはふむふむと頷いた。
「どう過激なのですか? ドロシー様からは、グラシア戯曲を代表する、悲劇の一つだと伺いましたが」
 興味津々、といった面持ちで、アレグリットが講説を求めてくる。ユーディスディランは他人の好奇心、あるいは向上心に、応えてやることにやぶさかでない。
「平たく言うなら、宗教問題が絡んでいる。グラシア戯曲が、千年ほど前に滅んだ海洋国家グラシアの、神話や叙事詩などを焼き直して、 トルイの劇作家エウラニュエスとその弟子が、戯曲に仕上げた作品群だというのはご存知かな?」
「はい、それは。大神アウルを頂点とする、白い肌の神々と、神に選ばれし人々の物語と」
「それを理解しているなら話が早い。グラシアの神々の肌は白い。グラシアは、今のトルイを始めとした、白の大陸南岸に興った国だからね。 それに対して、赤い肌のならず者というのは、赤の大陸で生まれた、イシュマル教の開祖ヴァズーザを指している。『滅びの詩』の下敷きとなった、 グラシア神話における、大神アウルと傾国の巫女エスパネルラの悲恋が、イシュマル教の民話では、白い魔王のもとから英雄ヴァズーザに救い出された、 生贄の乙女エスファネーラの物語として伝えられている。歴史の真実がいずれにあるのだか知れないが、国――つまりはグラシアの、崩壊を招いた恋という、 同じ主題を扱っていながら、一人の乙女を巡って争った、神と英雄の善悪が、語り手の立場を変えるとまるで逆転されてしまうのだよ。 グラシア神話は宗教を離れ、芸術の題材としてかの地で復興されて久しいが、イシュマル教の開祖の英雄譚を否定し、ならず者扱いをする内容ときてはね……。 トルイは赤の大陸から、白の大陸へ渡る際の玄関口、海洋交易で栄える多民族国家だ。市民にも渡航者にも多いイシュマル教徒を、悪い意味で刺激せぬように、 『滅びの詩』の公演だけは厳しく規制しているらしい」
「まあ、そんなことが……! 殿下は本当に、物知りでいらっしゃいますね!」
「何でも突き詰めてゆくと、奥深いものだからね。特にグラシア戯曲については、一家言あるつもりだ」
「そうなのですか。わたくし殿下の博学多識に、追い付ける日が来るでしょうか……」
 ほうっと感嘆の息をつき、ユーディスディランを気持ちよく持ち上げてから、アレグリットは尊崇を湛えた瞳で、しかし甘えるように、 ユーディスディランをくるりと見上げてこう言った。
「あの、もしよろしければ、もう一つ質問をしたいのですが……。構いませんか? ユーディス先生」
「よしよし、何でも答えて進ぜよう」
 こんな可愛い学徒が相手なら、ごっこ遊びも悪くない。ユーディスディランは博士面で、どんと胸を叩いてやる。


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