黒衣の女公爵  


第二十一章 「恋人」 2


 惚れた相手に、悲鳴のような声で呼ばれるまでして、どうして見捨てることなどできただろう――?
 気付けばルアンは、両手に嵌めていた軍手を脱ぎ飛ばし、がむしゃらにザボージュに掴み掛かっていた。
 温和なルアンであるが、彼が生まれ育ってきたのは、男ばかりの六人兄弟という、想像するだにどたばたとした家族構成の中である。辛抱の利かない子供時代には、 主に兄や年子の弟と、ささいなことをきっかけにして取っ組み合いの喧嘩をしてきた。それが落ち着く歳になったらなったで、 口だけでは効かないやんちゃ盛りの弟たちに、げんこつを落とすこともしばしばだった。 そうして培われた経験から、人に当てても構わないとルアンが思う限界いっぱいに、憤怒を乗せて振り抜いた拳は、呆然としたザボージュの顎を殴り飛ばしていた。

「何を……、なさってるんですか公爵様……」
 痛みに悶えるザボージュを、ぽいと地面にほっぽり出して、荒く息をつきながらルアンは、その身体の下で横倒しにされていたグネギヴィットを、 両手を引いて助け起こした。
「じょっ、状況をっ……、的確に読んで、物を言え……! わたくしは無理やりになされていただけで、何も積極的になさってはいないぞ……!」
 長椅子の上にへたりながら、グネギヴィットは厭わしげに、ザボージュの舌に這いずり回られた耳や首筋を、引っ張り上げた服の襟でごしごしと擦り上げた。 混乱し、グネギヴィットの物言いは少しおかしい。しかしルアンも、細かいことに頓着してはいられなかった。
「そうじゃありません! 何だってあんな時に、俺の名前なんか呼んだんです? 逆上してくれって言ってるようなもんじゃありませんか!」
「そ、んなこと、言ったって……、無意識に出てしまったのだからしかたないだろう……。それにっ……!」
 安堵と怒りがないまぜになり、グネギヴィットの瞳からぽろぽろと涙が溢れ出した。ルアンは焦っておろおろとしながら、ぐすっとそれを啜り上げ、 泣き歪めた顔で自分を見上げてくる、グネギヴィットを見返すしかない。
「わたくしはっ、とっ、とてもっ……、怖かったっ、のだからなっ……! うだうだと説教なんかを、垂れている暇があったら……、わっ、わたくしを、早く、 慰めてくれたっていいだろうっ……!」
「慰めろったって……、一体どうすりゃいいんです?」
「そのぐらいは自分で考えろ!!」
 怒鳴りながらグネギヴィットは、けれど裏腹に答えをくれた。もつれる足で立ち上がり、どしんとぶつかるような勢いで、ルアンの胸に飛び込んできたのである。
 泣きじゃくるグネギヴィットの、震える身体を受け止めて、ルアンは愛おしさで満杯になる。こんなことは、以前にもあった……。 どれだけ焦がれたところで叶えられるはずもなく、けれどなかなかに思い切れない無言の恋は、そうだ――、あの日あの夜、あの月の庭から、始まってしまっていた。
「ああ、はいはい……。もう大丈夫なんですから、そんな風に泣かなくたっていいんですよ……。 けど、思いっきり泣いちまった方が、楽になるってもんですかね……?」
 ルアンはあやすようにそう言いながら、グネギヴィットの頭を抱え背中を優しく叩いてやった。
 それは子供を宥める大人の仕種に他ならず、決して官能的な動きをしていなかった。
 けれどグネギヴィットは、両腕で目一杯に、ルアンの首に齧りつきながら陶然とする。
 手も、熱も、匂いも。
 ザボージュと同じ、若い男のものであることに違いは無いのに、それがルアンのものだとなんと心地が良いのだろう?  どきどきとして逃げ出してしまいたく、けれどもそれ以上に、永久にこの腕の中に留まっていたいような、深い深い安心感に包まれる。
 ずっとそうしていたいのは山々だったが、グネギヴィットはその恍惚に、そう長く浸ってはいられなかった。 自失から立ち戻った、ザボージュの低い呻きが、グネギヴィットを現実に引き戻す。

「……お前……」
 四阿のテーブルに手を付きながら身体を立て直し、ザボージュは顎の痛みと口腔に広がる鉄臭さに、顔を顰めながら口元を拭った。 ルアンに殴られた弾みで唇を切りでもしたのだろう、口の端と手の甲に鮮血が広がる。
「私の顔に傷を付けて、ただで済むとでも思っているのか!?」
「ちっとも思っちゃいませんよ!」
 びくりと身を縮めるようにして、首から離れたグネギヴィットを、背後に庇いながらルアンはザボージュに向き直った。 ぎゅっと握られる衣服、肩口に押し付けられる額――、縋るようなそれから、無理やり事に及ぼうとした男に対する、グネギヴィットの怯えが伝わる。
「あなたは、サテラ【南】州公様のお坊ちゃんだ。俺は当然、あなたに怪我を負わせた罰ってやつを受けることになるんでしょう。だけど、後悔はしていません。 俺のご主人様はあなたじゃなくて、こちらにおいでの公爵様だ。これからどう処分されちまうんだろうと、大事なこの方の危機を見過ごしちゃあ、 男が廃るっていうもんです!」
 それは百万遍好きだと繰り返されるよりも、グネギヴィットの胸を打つ、己が全てを投げ出すようなルアンの覚悟の言葉だった。ルアンはそれを、承知の上で……。 熱く込み上げる想いで、グネギヴィットの瞳から、別の涙が零れそうになる。
「偉そうな口を叩いているが、一体お前は何なんだ!?」
「俺ですか? そうですね、えーっと……、通りすがりの庭師です」
「通りすがりの庭師が、何故そんなにもグネギヴィットと親しげなんだ!? 本当のことを言ってみろ!!」
「そんなにがみがみ言われましても、他にお答えのしようがないもんで」
「ルアン、もういい」
 くいくいと袖を引きながら、困窮するルアンをグネギヴィットは遮った。ルアンは真正直に答えているだけだが、 ザボージュにはすっとぼけているようにしか聞こえないだろう。
「公爵様、大丈夫ですか?」
「平気だから……、お前はもう、黙っていなさい。ザボージュにはわたくしから、きちんと説明をするから」
 口元をひくりとさせながらザボージュは、指先で涙を払いつつ、ルアンの身体の脇から顔を覗かせたグネギヴィットに、追及の矛先を転じた。
「ルアン、というのですね。その庭師の名は」
「そうです」
「先ほどあなたが、連呼された名前と同じですね。まさか……?」
「ええ、ザボージュ」
 するりとルアンの腕に己がそれを絡め、その肩にとんと頭をもたせかけるようにして、グネギヴィットはザボージュに向けてこう言った。
「お察しの通りです。彼はこの城の庭師で、わたくしの恋人です」
「こここ恋人ーっ!?」
 この、グネギヴィットのとんでも発言に、彼方まで鳴り響く素っ頓狂な声を上げたのは、ザボージュではなくルアンである。
「どうしてルアンがそんなにも驚くんだ?」
「どうしてって……。ええっと……ですね、公爵様」
「何?」
「俺には、身に覚えっていうもんが、まるでないんですけれど……。一体いつから、そんなことに、なっていたんです……?」
 するとグネギヴィットは、あたふたするルアンの胸倉をぐいと掴んで軽く伸びあがり、見開かれたままの瞳いっぱいに自分の顔を映し込んで、 旋風のようにルアンの唇を奪い去った。
「――たった今」


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