黒衣の女公爵  


第二十一章 「恋人」 4


 グネギヴィットの宣告に引導を渡されたザボージュは、日頃のきらきらしさをすっかりとくすませ、シュドレーに連行されるようにして、すごすごと去っていった。
 グネギヴィットは気付いていなかったが、お茶の用意を運んで、『マルグリットの夏の園』の前まで辿り着いてはいたものの、 衛兵に止められて待機していたソリアートンが、何も言わずそれに付き従ってゆく。
 ザボージュのことは、このままシュドレーに任せておけば、グネギヴィットの親代わりとして送り出しまでを、上手くやってくれるだろう……。
 気抜けしたグネギヴィットは、へなへなとその場にうずくまりそうになる。

「わわっ、公爵様っ!」
 泡を食ってルアンは、グネギヴィットの身体を引っ張り上げて、地べたではなく四阿の長椅子へと掛けさせてやった。 首をかくんと俯けているグネギヴィットと視線を合わせるために、ルアンはその足元に屈みこむ。
「言いたい文句は全部、言っちまえましたか?」
「うん……」
「そりゃあよかった。偉かったですね、公爵様」
 下からグネギヴィットの顔を覗き込みながら、幼子を褒めるようにそう言って、ルアンは濃(こま)やかに笑み掛けた。 グネギヴィットをこんなにも消耗させた出来事を……、怯えさせ、震わせ、そして泣かせた出来事を、たいしたことではないことにしてやりたかった。
「……うん」
 グネギヴィットを元気づけてくれる時、ルアンの言葉は平たくて、そして思いやりに溢れている。
 常ならば怒って見せる、子供扱いに拗ね出すことも無く、心に沁みるルアンの笑顔に小さく頷いて、グネギヴィットはふにゃりと泣きべそになった。
 そんな彼女をもう一度、慰めてやりたい衝動はあるものの……、いくら恋人宣言されたといっても、高嶺の白百合である女公爵を、自分から胸の中に引き寄せるなど、 畏れ多くてルアンにはできない。後ろからローゼンワートに好奇に満ちた眼差しを、浴びせられているのでなおさらだ。

「……金輪際会いたくない」
「はい」
「名前を聞くのも嫌だ」
「はい」
「気持ち悪いのが取れない……。早くお風呂に入りたい……」
「またそんなごしごししなさって……、赤くなってきてるじゃありませんか、公爵様」
 再び服の襟を使って、右側の耳から首筋を摩擦し始めたグネギヴィットに、しかし理由が理由なだけにその手を止めるに止められず、ルアンは困った顔をした。
 ルアンの首には日よけに巻いた手拭いがあり、それを泉の水で濡らして……と一瞬考えるが、いやいやいや、汗臭くて駄目だろうと即座に却下する。

「公爵様……」
 そこへマリカが、グネギヴィットに呼び掛けながら遠慮がちに近付いて来た。
 ソリアートンと一緒に、ほんの少し前まで園の外で止められていたマリカは、グネギヴィットが縁談の断りを口にした辺りから、 主人たちの会話を切れ切れに漏れ聞いて、自分のお遣い中に何がどうしてこうなったかと青ざめていた。
「いいところに、マリカさん。綺麗なおしぼりか、それとも手布(ハンカチ)か手拭いか何か、水に濡らして拭ける布ありませんか?」
「あります!」
 今、役立てることがあるのが嬉しくて、マリカはお茶の用意をしてきたワゴンから、大至急で下ろし立てのおしぼりを取ってきた。
 立ち上がったルアンは、グネギヴィットの正面をマリカに譲り、自分の右首筋を指先でとんとんとしながら頼み込んだ。
「拭いてあげて下さい、公爵様のここんとこ」
「拭いてって……」
 ルアンから詳しく訳を聞き出さずとも、既にたっぷりと泣いた痕のある瞳を潤ませながら、白いシャツの襟を掴んで、 猫が顔を洗うような仕草を繰り返している主人の姿に、マリカにはぴんと来るものがあったのだろう。 今朝マリカが、綺麗に梳いてすっきりと束ねたはずの黒髪も、結び目が弛みだらしなくなっている。

「失礼致します、公爵様」
「うん」
 おしぼりを片手に近付くマリカに、グネギヴィットは素直に返事をし、右手を下ろして己を任せた。
 念のためルアンに向こうを向かせてから、グネギヴィットの長い髪を逆側に寄せ、男物のシャツの襟を少しだけ寛げさせたマリカは、 現れた主人の柔肌を目にしてぎょっとした。
「ああっ! 公爵様、またじんましんが出てるじゃないですか!」
「本当?」
「出ています。ぶつぶつしています。真っ赤ですよお首のところ。それにお肩の方は指の痕ですかこれ!! ううう、許すまじ、あのケダモノ……!」
 発疹の浮いたグネギヴィットの肌に、そっとおしぼりを当ててながら、マリカは口惜しげにザボージュを罵って、鼻息荒くルアンの後頭部を振り仰いだ。
「ルアンさん!!」
「はい?」
「ルアンさんにお願いしたのはお邪魔虫なのに、どうしてこんな酷いことになっているんですか!?」
「あー、えーと……、うーん、それは……、のっぴきならない事情がありまして……」
 それは公爵様が、そんなことしちゃあ絶対に不味いだろうという場面で、俺の名前を呼んじまったからです――とは、うぬぼれかのろけのようで答えあぐねて、 ルアンはマリカに言われた通りグネギヴィットに背中を向けたまま、頭を掻き掻き弁解にならない弁解をした。
 普通にしていれば服の下にあるグネギヴィットの素肌を、ちらりとでも見てはいけないことはわかるのだが、こちら側をむいていると、 自分を観察しながら何を考えているのかわからない、狸の微笑を湛えたローゼンワートとちらちらと目が合って、ルアンは非常に落ち着かない。

「何……? ルアンをここへ来させたのはマリカなの?」
「はい、そうです。私がいない間に、ケダモノがケダモノ化するのをですね、ルアンさんにさりげなーく妨害してもらおうと思いまして」
 今まさに、シュドレーによってエトワ州城から叩き出されようとしているが、雲上の公爵令息であるはずのザボージュを、 マリカはグネギヴィットの前でも完全にケダモノ扱いである。
 そんな主人至上主義のマリカと、不審極まりない挙動をしていたルアンの双方に、グネギヴィットは深く呆れた。
「全然さりげなくなかったけれど……」
 おまけにザボージュは、この園にルアンが留まっていたせいで、マリカの言葉を借りて言うならケダモノ化したといえるだろう。 機会を待って狙っていた、グネギヴィットの唇を求めるための、ちょうど良いかこつけにしただけの気もするが。
「さりげなーくも、何気なーくも、俺は苦手だって言ったんですけどね。マリカさん聞いてくれなくて」
「だってルアンさんにしか、お願いできないことでしたから。わざとらしーくしていても、庭師が庭にいるのは、 厨房助手や機械工が庭に来るよりは不自然で無いでしょう?」
「そりゃまあそうでしょうけど、お邪魔虫作戦は、結局失敗もいいとこだったんでしょうね」
 ばつが悪い気持ちで、ルアンは髪をかき混ぜる。自分の行動が、まさかここまで裏目に出るとは思わなかった。
 ルアンの存在はザボージュの、ケダモノ化を邪魔するどころか、さらに危険な猛獣化させてしまった。男の嫉妬と獣性を呼び覚まし、 その身に喰らい付かせてしまったのはグネギヴィット自身だが、それでもやはり、もしもその場に自分がいなければ――と、ルアンは考えずにはいられない。

「そう……。ずいぶんお仲がよろしいようだけれど、お前たち二人、いつの間にそんなに親しくなったの?」
 雲行き怪しいグネギヴィットの嫌み混じりな問いかけに、ルアンはたまらず振り返ってしまいながら、大慌てで打ち消した。
「いや別にそんな、仲良いってわけじゃあ……!」
「そうですよ、公爵様。私とルアンさんは同志なだけです」
「ふ、う、ん」
 グネギヴィットが二人に向けて、疑いをたっぷりと含ませた相づちを打ったところで、それまで静かに様子見をしていたローゼンワートが、 おもむろに歩み寄って来ながら口を挟んだ。
「そういう痴話喧嘩は後回しになさって、焼きもちを焼けるだけの生気を取り戻しておいでなら、そろそろお部屋へお戻りになられませんか、グネギヴィット様。 重々おわかりでらっしゃいますでしょうが、これから後始末がたいへんでございますよ。 じんましんを主治医に見せて、入浴をされたいならばさっさとなさって、早急に親族会議のご準備をなさらないと」
「親族会議か……気が重いな……」
 ぼやきながらグネギヴィットは、マリカに手で合図しておしぼりを除けさせた。マリカは続けてグネギヴィットの襟を正し、髪の乱れも簡単に直してくれる。
「親族会議如きに、尻込みしていてどうします。もっと面倒なのはその先でございましょうに。庭師のためにもあなたがしゃっきりなさらないと。 身ごしらえはできましたか? はい、では、立って下さい」
「ああ」
 ローゼンワートに促され、伸べられた手に渋々ながら指先を乗せたグネギヴィットは、それを軽く握られたその瞬間、全身を貫いた怖気に思わず彼の手を振り払っていた。

「嫌っ……!」
「グネギヴィット様……?」
「どうなされたんですか公爵様っ!?」
「……気持ち、悪……」
 幾度となくエスコートやダンスの相手をさせてきたどころか、幼少時には家族同然に過ごし、抱え上げて遊んでもらったことすらある、再従兄(はとこ)であるローゼンワートの手に、 グネギヴィットはこの時、ザボージュに対するのと同種の恐怖と嫌忌を感じていた。 ローゼンワートは今、時々わざとからかうようにして彼が出す、下心を引っ込めていたにもかかわらずだ。
 冷や汗が吹き出し、激しい動機で呼吸が困難になる。ゆらりと上体を泳がせながら、グネギヴィットはそれを救える唯一人に助けを求めた。
「……ルアン」
「公爵様!?」
 懸命に、差し伸べた手が繋がれる。ああこの手だ、とグネギヴィットは安堵する。ちゃんと微笑むことができただろうか……?
 太陽の温もりがする大樹のような恋人に、力強く抱き止められながら、器に満ちる幸福感に引きずられ、薄れゆく意識の中でグネギヴィットの心も天に昇る。 身体はなんと正直なのだろう……。
 もう嘘はつけない。わかってしまった。
 他の誰に替えることもできはしない。グネギヴィットが触れたいのは、触れられたいのは、この世にルアン一人きりだ。
 それがどれだけ困難なことでも、常識外れな望みであっても……、グネギヴィットはこれから先の人生を、ルアンと共に歩みたいのだ――。


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