黒衣の女公爵  


第二十三章 「激情」 4


 さあ、一度湯に浸かり、脂粉も香りもさっぱりと洗い流して、武装準備の開始である。
 社交界という名の、百花繚乱の戦場に向かうに際し、娘時代に王女付き高等女官を務めた経歴と、隣国ヌネイルのテーラナイア家に嫁して後は、 外交高官の――末は世襲で外相であった――夫に帯同し、諸外国の宮廷を歴訪した経験を持つメルグリンデは、実に頼もしい軍師であった。
 大きな姿見とメルグリンデの前で、幾着もの夜会着を当てたり着たりしたおした後に、アレグリットは王都に来てからあつらえさせたものの中から、 夏らしく若々しい空色の地に、金糸と白絹の糸で刺繍がほどこされた、新作のドレスを選んだ。ちらりと裾から覗く靴は、それと共布という贅沢さである。
 まだあまり必要の無い化粧は薄く抑えつつも、王太子との歳の差を強調せぬように、可愛らしさよりも清らかさを際立たせるものにする。 香水も少しだけ背伸びしたものを控え目に。
 艶のある黒髪は、清潔な色気を漂わせ始めた項を露わにして清楚に結い上げ、母の形見で姉から下げられた、白百合を模(かたど)ったクルプワ硝子の櫛を飾る。 揃いの意匠の金細工の首飾りと耳飾りも、同様にサリフォール本家の女系に伝えられる、由緒ある宝物(ほうもつ)だ。
 そうして仕上げの扇は、他の品々に負けず劣らずの上物(じょうもの)ではあるが、決して浪費家ではないことを示すように、あえて新緑祭の日と同じ、 金の房が付いた白いレースの扇を使い回すことにした。

 王后の趣味や王太子との調和を考え、さらには敵意を持った人々の、否定に満ちた品定めに堪え得るようにと意識して、 あざといまでの計算をしつくした装いであったが、その仕上がりときたら、白磁の肌やほっそりとした肢体の優美さも相まって、眩いばかりの清雅さであった。 我が姪ながら……と、メルグリンデはほうと感嘆を付く。
 そのメルグリンデの感慨は、そうして準備万端に着飾ったアレグリットを、翌日の夕方、紺青の衣装に身を固めて迎えに来た、 ユーディスディランに並べるとさらに深くなった。
 伯母の欲目かもしれないが、恋する人を前にして瞳をきらめかせ、はにかむ表情も効果を上げて、今宵のアレグリットは本当に麗しい。
 複雑な気持ちを抱えているであろうに、それおくびにも出さず、何はさておきアレグリットに賛辞を送り、メルグリンデにも爽やかに挨拶をしてから連れ出すところ、 ユーディスディランはさすが王太子であった。
 メルグリンデはアレグリットが、平和に観劇を終えて帰ってくることを祈りつつ、予想以上に似合って見える、従兄妹同士を見送った。


*****


 さて、そんな風に、メルグリンデの前では平静を装っていたユーディスディランなのだが。
 一路王立劇場を目指して、走り始めた馬車の中で、アレグリットと二人きりになると少々様子が違った。
 王宮の図書室で本を挟んで向かい合い、過ごしてきたような常と比べると、どうにも暗く塞ぎがちで、言葉少ななのである。
 楽観的な解釈をすれば、そういった負の面も曝け出せるほど、ユーディスディランはアレグリットに気を許しているのだとも受け止められるが、 今のアレグリットには、どうしたって、昨日の『フィアルノ新聞』の号外記事が、ユーディスディランの心に重く影を落としているのだろうという悲観の方が勝る。
 だって、そう――、妃に望み求婚をするくらいに、ユーディスディランはグネギヴィットが好きだったのだ。 歳の離れた自分に、ユーディスディランが興味を抱いてくれたのは、何よりもまず『グネギヴィットの妹』であるからなのだと、 誰よりもアレグリット自身がわかっている。
 それでもよかった。姉の元恋人であると知りながら、慕ってしまったのは自分なのだから。 姉とは違う自分を見て欲しい、好きになって欲しいと願いながら、悩んだ時には真っ先に、姉ならばどうするだろうと考えたし、似ていると褒めてもらった容姿を、 利用してこなかったといえば嘘になる。
 ユーディスディランの中に残るグネギヴィットの大きさが、ほんのちょっぴり、痛いけれど……、失くした恋の想い出をあんな風に汚されて、 ユーディスディランはきっともっと痛いだろう。
 半人前の自分より、ずっと大人な男の人を、慰めたいと思うのはおかしいだろうか?
 切なさに浸って落ち込んでいるよりも、ユーディスディランが傷ついているのなら、それを癒すのは自分でありたいとアレグリットは思うのだ。
 しかし、鋭く切れたばかりの傷口に、一体どう触れたものだろう……?
 窓際に頬づえをつきながら、見るともなしに窓外を見やるユーディスディランを眺めつつ、考えあぐねていたアレグリットは、 翳りを帯びた王太子の横顔の向こうに、主君の馬車を護って馬を走らせる、近衛騎士隊長の姿を見かけて目を見張った。

「キュベリエール様……?」
「キュベリエールが、何か?」
 驚きに満ちたアレグリットのつぶやきを拾い上げ、ユーディスディランがこちらを振り向いた。
「あの、いえ……、殿下がお迎えに来て下さった時、お付きでいらしたのは副隊長でしたので、本日はお休みでらっしゃるのかと思っていました。 キュベリエール様は、当家にご配慮を下されたのですね?」
 アレグリットはどぎまぎとしながらも、思わず声を上げてしまった理由を正直に答えた。ユーディスディランはゆっくりと頷いた。
「ああ。キュベリエールは昨日のあれには……、サリフォール公の記事に関する事柄には、一切係わっていないらしいのだが、今宵の私とあなたとの約束に、 頭から水を差したくないので邸の外で待機をしていると言い張ってね。だが、劇場内にはキュベリエールを従えて行くし、 観劇の間は桟敷席の背後にそのまま付かせるつもりでいる。ご了承を頂けるかな?」
「それは、ええ。近衛二番隊の隊長に、護衛して頂けるのは実に頼もしゅうございます。お気遣いを頂いて恐縮なくらいです」
 正直、居心地は良くないだろうが、今日のような特別警護が敷かれる場合において、ユーディスディランの傍近くに、 当然控えているべきキュベリエールが見えない方がもっと具合が悪くなる。王太子の桟敷から、アンティフィント家の次男坊を追い出した――と、 アレグリットが悪しざまに言われぬように、ユーディスディランはキュベリエールを張り付かせてくれるつもりなのだろう。

「あのっ、殿下っ」
「うん?」
 恐縮ついでに、アレグリットは思い切って姉の話を切り出すことにした。 王都の地理に疎いアレグリットには、王立劇場には後どれだけの時間で着くのだかがわからない。 優しく促すユーディスディランに、本当に伝えたいことだけをとつとつと告げた。
「姉とその、庭師……のことですが……、兄との永訣に、殿下とのお別れが重なって、姉はそれだけ辛かったのだと……、そういう、ことなのだと思います……。 姉が殿下を裏切っていたなどということは、それだけは、絶対にございません……!」
 それに対して、しばらく口を閉ざしたまま、アレグリットの真意を量るように、その瞳の奥を覗き込んでいたユーディスディランは、 過去の恋とグネギヴィットについての、こんな見解を語った。
「私は、あなたの姉君について多くを知らない。どんなことがあろうとも、あの人は私の前で、常に理性を保っておられたから……。 私が惹かれ愛したのは、あの人が私の理想を叶え見せ続けた、理知的な淑女の顔だけなのだろう」
「殿下……」
「それでも、大ぼら吹きの記者よりかは、あの人のことをわかっているつもりでいる。そんな心配をなさらずとも、あの頃のあの人が、 私に不義を働いていたなどとは思っていない、アレグリット。……ところであなたは、昨日からフィアルノが吹聴している、姉君と庭師との関係を、 認めてしまわれるわけだ?」
 途中までは穏やかだった、ユーディスディランの眼差しが、瞬間、鋭くなった。噂と真相の区別をせずに先走ってしまった、失言に気付いてアレグリットは青ざめる。
「それは――」
「いや、意地悪を言った。ここであなたを問い詰めて、苛むような事ではないね。たとえあなたが、私の知らない真実を掴んでおられるのだとしてもだ。 それだけ辛かった――か……。そんな弱音を、漏らしてくれたことのないあの人には、もたれかかる相手など、必要ないのだと思っていた……」
 所詮、それだけの仲だったと嗤(わら)うのか、グネギヴィットの見せない弱さを汲み取ってやれなかったことを悔やむのか、 ユーディスディランは寂しげな自嘲を浮かべた。
 二人と共に重い沈黙を乗せた馬車は、それから間もなく王立劇場に到着した。
 この夜の主役を袖に迎えて、デレスの宮廷史に末永く残される大舞台の、開演の幕が上がろうとしていた。


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