黒衣の女公爵  


第二十五章 「団円」 3


 数年の後――。
 デレスは親王殿下誕生の慶事に沸いていた。

 アレグリットはユーディスディランと順調に愛を育み、翌年十六歳で婚約。成人を迎えた十八歳で輿入れし、 その際に国教会からテュアキュリスト【白百合】の神聖名を贈られて、それによってアレグリット・テュアキュリスト・ドゥ・デルディリークを名乗る現在、 母親の肖像をなぞるようにして、姉が与える印象よりも物柔らかに、清麗に開花したその姿を国民に、新たな『デレスの百合』と誇られていた。
 舅姑にあたる国王夫妻との関係も良好で、ただ世継ぎを上げられるかということだけが、非常に懸念されていたアレグリットは、 大方の予想を覆して結婚一年目に懐妊した――のは良かったが、その妊娠期間中、宮廷医師から絶対安静を言い渡されることが度々で、周囲をはらはらさせ通してきた。
 ユーディスディランに覚悟を迫るような難産の末、産声を上げたのは玉のような男児であった。始祖王と同じく黒髪黒目を持ち、盛夏に生まれたこの次代の王太子に、 強く逞しく育つようにという祈りを込めて、国教会はサリュートの神聖名を奉じた。それは『英雄王』の異名で呼ばれる始祖王の名であり、 剣を掲げた青年の姿で描かれる、勝利を司る夏男神の名でもあった。
 内孫の誕生に大喜びしたハイエルラント四世は、延ばし延ばしにしていた譲位をいよいよ実行に移そうと、うきうきと計画を始めたそうである。 そう遠くはない未来、おそらくは来年の社交の季節の内に、デレスはユーディスディラン二世の御世を迎えることになるだろう。


*****


 北【エトワ】州公サリフォール女公爵グネギヴィットは、二歳になる世子を連れて王宮へ慶賀に訪れた。
 男装の麗人として知られるグネギヴィットが、貴婦人の装いでいるのも珍しいが、公的には独身の彼女が、愛息を王宮に上がらせるのは初めてのことである。 集まる耳目をものともせずに、一般参賀の列が続く王太子と国王夫妻への挨拶は後回しにさせてもらうことにして、妹である王太子妃への面会を求めたグネギヴィットは、 用意してもらった控え室に息子を乳母と待機させて、まずは一人で王太子妃の寝室へと通された。

「サリュート様に会いに来たよ」
 おどけた口調で声をかけたグネギヴィットを、大任を果たしたアレグリットは、晴れやかな笑顔をもって迎えた。まだ当分床払いをできないアレグリットは、 寝衣で寝台の上にはいるが、クッションを当てて身を起こし、姉の見舞いを受けられる程度には回復している様子である。 傍らに据えられた立派な揺り篭の中では、生後間もない小さな赤子が、両のこぶしを握ってすやすやと眠っていた。
 その愛らしさに頬を緩めて、ぷくぷくとした頬や手や口元にしばしうっとりと見惚れてから、グネギヴィットはその眠りを破らないように声を顰めた。
「おめでとう。王都はものすごいお祭り騒ぎになっているね。親王殿下ご生誕の報と一緒に、国教会から神聖名の公示があったけれど、お名前はもう決まったの?」
「ええ。名君の誉れ高かった、お祖父様のお名前を頂くことにして、この子の名は、アレフキースと」
 優しい母の顔で、我が子の寝顔を見守りながら、アレグリットは伯母となった姉にそう答えた。それは先代国王アレフキース二世の名声にあやかると同時に、 知る人ぞ知る王太子夫妻の馴れ初めの思い出をこっそりと潜ませた名前でもあった。
「アレフキース・サリュート・ドゥ・デルディリーク殿下」
「ええ」
「お生まれになるまでは本当に、冷や冷やとさせてもらったけれど……、殿下はお健やかなご様子だし、アレットの産後の経過も悪くないようで安心をした。 よく頑張ったね、アレット」
「ありがとうございます、お姉様」
 そこへグネギヴィットの来訪を伝え聞き、一般参賀を父母に任せて、休息がてらに抜け出してきた、ユーディスディランが入室してきた。
「ようこそ、義姉上」
 年下のグネギヴィットにからかうようにそう言って、貴婦人への挨拶――グネギヴィットの男性嫌悪症は、 幸せな私生活を送る中でいつのまにか解消していた――を済ませたユーディスディランは、その目も気にせず愛しの妃の頬へ接吻をしにゆき、 それから蕩けるような表情で揺り籠を覗き込んだ。
「お世継ぎのご誕生、心よりお慶び申し上げます。親王殿下はご両親のどちらにも似ておいでですね。父親になられたご感想はいかがですか? ユーディ」
 それらの様子ににやにやとするグネギヴィットに尋ねられて、ユーディスディランはかわるがわる妻子を見てから、しみじみと真情を吐露した。
「アレットも子供も、二人ながらに無事でよかった……、とにかくもう、それに尽きる。できるならば二人の傍から、片時も離れていたくないところなのだがね」
「アレットの姉のわたくしには、誠に嬉しいお言葉です。殿下の臣と致しましては、溺愛が過ぎて、国政をなおざりになさいませんようにと、 御忠告申し上げねばなりませんが」
「忠言耳に痛しだね、肝に銘じておこう。ところで王宮の雀たちが、先ほどからかしましく噂をしている。あなたに同行してこられた小さな貴公子は、 新しいサリフォール家の総領かな?」
「はい。アレットと前々から、約束をしておりましたもので。親王殿下とアレットと、お二人のご体調が許すなら、お目通りをさせてやりたいのですがよろしいですか?」
 グネギヴィットの申し出に、目と目を互いに見合わせて、王太子夫妻は微笑み合った。ユーディスディランの口から出た答えは一択だ。
「もちろん」


*****


 ユーディスディランからの連絡を受けて、乳母に抱かれたサリフォール家の総領が、王太子妃の寝室へまかり越した。こなたの幼児も黒髪黒目だ。
「大きくなったこと……!」
 久方ぶりに甥を目にして、まずはアレグリットが感慨深く目を細めた。アレグリットが以前に会った――というよりも、同じ城で生活し、 毎日のように可愛がっていたのは輿入れ前のことだ。
「利発そうな子だ。シモンリールの面影がある」
 初対面のユーディスディランは、若くして亡くなった先代サリフォール公爵を懐かしく思い起こした。それは一目でグネギヴィットの子だとわかるような、 母方の血が色濃く表れた、端正な目鼻立ちの男児であった。
「ランドリューシュと申します。坊や、陛下にご挨拶をなさい」
 幼いランドリューシュはユーディスディランに見つめられて、僅かながらに手を振ってから、恥ずかしげに乳母の肩に顔を埋めた。
「このように、人見知りが激しくて困っております。庭で父親に遊んでもらっているような時には、たいそう賑やかなのですが」
 初めての王宮で、借りてきた猫のようになっているランドリューシュの髪を撫でて、グネギヴィットは苦笑した。 構わないと笑んで、ユーディスディランはふと問うた。
「ご夫君はご壮健か?」
「ええ、それが身上でございますから。長く離していますとこの父親っ子がぐずるので、今は王都の邸に子守りのために来ております。 我が夫からもおめでとうございますと、手製の木馬を託されて参りましたので、わたくしからの祝いと一緒に納めさせて頂きました」
「まあ、嬉しい! お義兄様はわたくしのお願いを覚えていて下さったのですね。ユーディ、義兄(あに)は本当に器用なのですよ、頂いた木馬を拝見するのが楽しみです」
 誰もが思っていた通りに、子煩悩な父親となったルアンは、今でも当たり前に続けている庭師仕事の一環として、木工の椅子や玩具などを、 息子の成長に合わせてこつこつと手作りしていた。
 丁寧に角を落として、滑らかにやすりをかけたそれらの品々の、製作者の人柄をそのまま形にしたような、素朴で温かみのある仕上がりに感銘を受けたアレグリットは、 もしも我が子ができればぜひとも一つ作って欲しいと、結婚前に義兄のルアンにおねだりをしていたのである。
「アレットがこう言っていることだし、贈り物の荷を開くのを私も楽しみにしておこう。ありがとうグネギヴィット。 ご夫君にも、私とアレットからの、礼を伝えて頂けるか?」
「はい」
「それにつけても、王太子というのは因果なものだ。あなたのご夫君とは、一度私的にお会いして、じっくり酒でも酌み交わしてみたいところだが、 身分が邪魔をしてそうもゆかない」
「わたくしの夫は、ユーディからそのような光栄を頂戴したとして、とても酒が喉を通ったものではないと、及び腰で辞退するような性質(たち)ですよ。 ですがわたくしたちが共に生き、こうして愛し子を得ることまで叶いましたのは、他ならぬ王太子殿下のおかげさまでございます。 夫婦共々殿下への感謝を忘れたことはございません」
 今では総領の父親ともなったルアンは、それによってグネギヴィットの夫の地位を安泰させていたが、だからといって増長するようなことも無く、 あいかわらず謙虚である。
 それはルアンが、何かと口煩いサリフォール家の一門に不服を抱かせぬところでも、直接に彼を知るエトワ州城の人々のみならず、 ただ州公に名すらも公表されない身分違いの夫がいることだけを知る州民にまで好感を持たれるところでもあり、そういった良い意味での不変性も、 ルアンの得難い人徳ではなかったかと、グネギヴィットは実感している。

「ランドリューシュ、ご覧」
 乳母に預けていた幼い息子を抱え上げて、グネギヴィットは揺り篭の中を覗き込ませた。そうして近づけると、同じ髪色をした、 所々の面差しが重なる従兄弟同士の子供たちは、まるで兄弟のようにも見えた。
「可愛いね、アレフキース殿下だ。将来お前のご主君となる御方だよ」
「かわいい、あえふ?」
「そう。アレフキース殿下」
「あえふいーす!!」
 舌足らずに赤子の名を呼ぶ、ランドリューシュのあどけなさに、和んだ大人たちの目尻が垂れた。
 綻ぶ母の顔を見上げてから、揺り籠に齧りつき、生れて初めて見る赤子にじいっと見入っていたランドリューシュは、興味深そうに手を伸ばしたかと思うと、 あっと思う間もなくその頬をふにゅりと掴んだ。とたんに目覚めたアレフキースは、火が付いたように泣き始める。
「めっ、ランディ! 赤ちゃん痛い痛いで泣いちゃっただろう」
 その身体を大急ぎで床に下ろして、グネギヴィットは息子を叱った。ランドリューシュはきょとんと首を傾げる。
「いたいいたい?」
「そう。ランディも、ほっぺたもっとぎゅうってされたら痛い痛いだろう?」
「あえふ、いたいいたいの……?」
 膝を折ったグネギヴィットに、軽く両頬をつままれて、ランドリューシュは悪いことをしたのだとわかったらしい。 ユーディスディランに抱き上げられ、夫婦二人がかりであやされているアレフキースを見上げると、黒目勝ちの瞳にみるみると涙を溜めた。
「そうだよ。ほら、ごめんなさいして」
「ごめん、ちゃい」
 王太子夫妻とアレフキースに向かって涙声で謝ると、ランドリューシュもグネギヴィットの首に抱き付きうわーんと大きな泣き声を上げた。 そこにいた大人たちを慌てさせる、元気で騒がしい二重奏が、開け放たれた窓の外にまで響き渡った。

 後に長じたランドリューシュは、自分の最も古い記憶は、真っ赤な顔で泣き叫んでいた、赤子のアレフキースを見たことだと語って、グネギヴィットを驚愕させる。
 しかし自分がつねって泣かせた事実の方は、きれいさっぱり抜け落ちていて、
「それは先々に、散々アレフキース殿下に迷惑をかけられるのだということを、子供心に察知したのではないですか?」
 とほざいたそうな。


*****


 深窓の美姫として王家に嫁ぐはずが、思いがけず家督を継ぎ、兄の遺品を纏って政を執り、平民の庭師を夫として、末永く州民に慕われてゆく希代の女公爵の物語は、 これにてめでたしめでたしで幕を引くこととする。
 この時出会った子供たちが、大きくなって主従の契りを交わし、別の騒動の目となるのは、もう少し未来の、おはなし。


- Fin -


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