教生模様


美術科 1日目 「翼を失くしたイカロス」


 大学四年生の朝は遅いもんだ。
 てゆーか俺の場合、きっと夜が長いんだな。絵を描くことがそう。アルバイトだって、デートだってそうだ。夜の方が有意義に、捗ることは色々とある。
 徹夜明けでなくて、朝の光を浴びたのは本当に久しぶりな気がするぞ。六時半に起床、八時前には学校って、何てまあ健全で人間らしい生活なんだろうねえ。
 綺麗に髭を剃って。作り込み過ぎないように髪をセットして。真っ白いシャツにアイロン当てて。首にはきっちりネクタイ締めて。仕上げに何と、スーツだよ、スーツ。


*****


「……オハヨーゴザイマス」
「お早うって、大夢(ひろむ)……」
 埃っぽいカンバスの山に囲まれた、古くてボロくて懐かしい部屋。中に転がり込むとタモさんが、目をまん丸くして俺を出迎えてくれた。頭あんまり回ってないけど、やっぱここは笑顔かなー……。笑っとこう、えへ。
「大夢、お前何いきなり、美術準備室に来てるんだ? 教育実習生は今日、進路指導室に集合の筈だろう!?」
「そうだったっけ?」
 指導担当の先生のとこ、直行じゃあなかったんだねえ。
 大夢っていうのは俺の名前。フルネームだと及川大夢(おいかわ ひろむ)。
 夢はでっかく持てってわけだ。つけてくれた親の気持ちが、非常にわかりやすい名前だね。
 ついでにそうだ、タモさんはね、俺が高校ん時入ってた、美術部の顧問で美術教師の田守(たもり)先生。タモリだからタモさん。そのまんまなあだ名。
「タモさん、進路指導室って、どこよ?」
「国語科と英語科の職員室の右隣だ」
「国語科と英語科の職員室ってどこだっけ?」
「東校舎の二階。忘れたのか?」
「うーん……。忘れたっていうか、そんなのあったって記憶ないかも。それよりタモさん、東校舎って――」
「正門入ってすぐの校舎」
 さっすがタモさん。三回目の質問には、ぐるっと先回りしてすぱんと明確に答えてくれた。
 ついさっきくぐってきたわけだから、さすがに俺にも正門の場所くらいはわかるけど、てことはさ、あーあ。来た道をまた逆戻りしなくちゃだよ。
 手間は一緒なんだから、さっさと移動した方がいいんだろうけれど、早めに着くように来たからたくさん待たされるんだろうなあ……。絶対その間に、居眠りしちゃうと思うんだよね、俺。
「ああもう、眠くて駄目……。ねータモさん、コーヒーちょうだい」
「ちょうだいって、あのなあ。俺は行きつけの店のマスターじゃないんだぞ」
 タモさんは呆れ声でそう言いながらも、それまで腰かけていたソファを顎の先で俺に示した。
「その辺適当に座っとけ」
「うん」
 タモさんは相変わらずいい人だ。俺はお言葉に甘えて合成皮革のソファに倒れ込む。
 この高校の美術教師は、今も昔もタモさん一人。だから美術準備室は、学校の先生の控室っていうよりも、タモさん色に染められた絵描きのアトリエだ。唯一つ先生っぽさを醸し出しているグレーの事務机は、 所々に油絵の具をくっ付けられて、居心地悪そうに部屋の隅っこへと押しやられている。
「大夢、ミルクと砂糖の数は?」
「そだねえ。ミルクが一つに砂糖が四つで」
「四つ!?」
「うん。苦いと飲めない」
 それでよく、大夢はまだまだ子供なんだからもうってからかわれたりするんだ。
「……紅茶にしとくか?」
「ううん、いい。コーヒーじゃないと、目、開かない」
 おかしなもんで、カフェイン入っているのは同じなのに、紅茶でも緑茶でも烏龍茶でも駄目なんだ。俺に巣くう睡魔を退治できるのは、ちょっと体に悪そうな気がする極甘コーヒーだけ。
「コーヒーらしい匂いはするけれど、味は全く別もんになっている気がするな」
 ぶつくさぼやきながらもタモさんは、ぐるぐるとかき混ぜていたスプーンを抜いて、大ぶりなマグカップを差し出してくれた。
「そら」
「ありがと。タモさん」
「ああ。飲み終わったらさっさと行けよ」
「ん。いただきます」
 猫舌だから、しっかりふうふう冷ましてからね。
 インスタントコーヒーを美味しくする秘訣は、何てったって、この人好きだなあって感じる人に淹れてもらうこと。
 それから、その人と一緒にいる空間で、ゆとりを持って飲むことなんじゃないかなあ。俺にとっては何か飲む時も物を食べる時も、気持ちってやつが一番大事。
「大夢」
 甘い甘いコーヒーを、ありがたくちびちび味わっていると、窓枠にもたれたタモさんが、真面目な顔つきをして俺の名前を呼んだ。
「何? タモさん」
「お前、何で、教育実習なんかしにきたんだ?」
 うわ、来た。直球が来た。人には色々事情ってもんがあるんだから、そこんとこは日本人らしく曖昧にしとかない?
「んー……。可愛い女子高生とお近づきになれるかなって」
「わざわざうちの生徒と、お近づきにならなくたって間に合っているんだろう」
 冗談でごまかしたら冷静に受け流された。
「うわあ。教師の台詞ですか、それ」
 先生が教え子のプライベートを決めつけちゃあいけません。
「教師だから一応、忠告しているんだ。わかっちゃいると思うが、生徒には絶対に手ぇ出すなよ」
「はいはい」
 しっかり釘を刺されたけど、そんな心配、しなくったっていいのにな。
 俺は女の子みんな好きだけど、大人の女性はもっと好きです。
「――で、本当のところは、どうなんだ? 俺は教育実習の内諾者だって、大夢の名前を聞かされた時、あんまりにも意外だったんで半端じゃなく驚いたよ」
 コーヒーの味が一気に、ほろ苦くなった気がした。参っちゃうよね。ちょっとやそっとのことじゃ、はぐらかされてくれないんだもん、タモさんは。
「……俺さあ、怖く、なったんだよね」
 白状するなら、さっさとしといた方が楽になれるかもしれない。俺ってばタモさんの前だと正直者なんだから。
「怖い?」
 先を促すような目で、タモさんはじっと、俺を見る。誰よりも親身になってこの先生が、俺の進路相談に乗ってくれていたこととか、将来は絵描きになりたいって青臭い夢を、 笑わないで聞いてくれたこととか、しんみり思い出しちゃったよ。
「うん。美大のやつらに、こんちくしょーって思わされること、いっぱいあってさ。だけど俺には、思い通りの線だって、色だって、なかなか出せなくってさ……」
 でっかい夢に向かって、飛び続ける為には翼がいる。それは、自分を信じて邁進してゆけるだけの、才能って、翼。
「卒業制作の絵さえ無難に仕上げたら、俺は来年の春、ちゃんと卒業できると思うよ。だけどその先、何にもなれません――てなわけにはいかないから」
「……そうか」
 タモさんはそれ以上、何も聞かなかった。
 だから俺も何も言わなかった。弱気な泣き言になりそうで、言いたくは、なかったんだ。
 眠気なんて、もうすっかり覚めていたけれど、色んな気持ちをごまかしたくて残りのコーヒーを啜った。砂糖を幾つ足したところで、舌の上に残る、このざらざらした苦みは消えない。 だってこれは味覚じゃなくて、俺の心の問題だから。

 張り詰めたような沈黙を破って、固定電話の着信音がご陽気に鳴った。気を取り直してタモさんが受話器を上げる。
「はい、美術準備室、田守です。――あ、森先生、お早うございます。 ――えっ!? 過ぎてる!? ――えっ!? 来てない!?」
 タモさんは大慌てで時計を確かめて、俺を振り返って真っ青になった。かと思うと、見えない相手に向かってぺこりと頭を下げた。何なんだろ、一体?
「すみません! すぐそちらへ向かいます! 教生の及川大夢もここにいます! ――はい、はい、はい、はい、はい――申し訳ありませんっ!!」
 半ば叩きつけるみたいにして、タモさんはガシャンと激しく受話器を置いた。それから引きつった顔をして、俺の腕を掴んで引っ張り上げた。
「大夢! 暢気にコーヒー飲んでる場合じゃないっ! 早く荷物持て! 走って行くぞっ!!」
「え――? どこに?」
 急かされて、呆然として、カップを置いた。荷物、荷物は、ええと鞄が一つ。
「国語科と英語科の職員室! 俺たち二人が遅れているから、職員朝礼を始められないそうだ!!」
「ええーっ!?」
 そんなに長居したつもりはなかったんだけど……。
「あーあ。初日の朝から、タモさんのせいで怒られるー」
「責任転嫁をするなっ。俺はお前以上にこってり絞られるよ……」
 タモさんはもしゃもしゃと髪の毛をかき回して、はーっと盛大に溜息をついた。だけどそれから、にやりと笑った。
「ま、お前の本音を、聞いておけて良かったよ。潔く二人並んで、叱られに行こうじゃないか」
 俺が教職を取った理由は、前向きなものじゃなかったかもしれない。けど。
 タモさんみたいな先生にだったら、なってもいいかな――なんて、思ったりも、するんだ。


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