教生模様


美術科 2日目 「背中を蹴られたオルフェウス」


 生徒の色が学校を決めるのかな? 学校の色に生徒が染まるのかな?
 校則がけっこう緩めで、公立校のわりには制服がオシャレで、進学校っていうほど進学校じゃない俺たちの母校は、勉強よりも青春しに来ました――って感じの生徒が多い高校だ。
 タモさんが受け持っている三年八組には、特にそんな子たちが集まっている気がするんだ。放課後の教室の中はほら、文化祭の準備で居残っている生徒たちの熱気でいっぱいだ。
「そろそろ下校の時間だよー。ほらみんな、急いで教室の中片付けて帰る帰るー」
「やっべー。教育実習生がきたー」
 男の子たちはそう言って、散らかしていたやばいもの? を、ガサガサまとめ始めてくれたけど、三年八組の力関係は、断然女の子たちに軍配が上がる。
「及川先生もうちょっと。もうちょっとだけ! 今、すっごいいいとこやってるから!」
「お願い、せんせー」
 元気な女の子たちにざざざっと取り囲まれて、きらきらした目でおねだりされたもんだから、圧倒されながらちらちらっと時計を見た。うーん、どうしよう……。 まだ六時半まで十分ぐらいあるし、ま、いっかなー。
「……ちょっとだけだよ」
 何だか面白そうな雰囲気が漂ってるから、正直俺も付き合ってみたくなったんだ。だけどそんな気持ちは、生徒たちにはバレないようにしないとね。
「やたっ! 先生話せるっ!」
「じゃあ七幕の最初からねー」
 台本振り上げてクラスメイトを仕切ってる、学級委員長だって女の子だ。何となくなんだけど、タモさんのご家庭がかかあ天下だっていう噂は、本当じゃないかなって思うんだ。


*****


 文化祭で、三年八組は劇をやる。
 演目は『オルフェウス』。ギリシア神話の琴座にまつわる物語だ。
 主役のオルフェウスは、天才的な吟遊詩人。最愛の妻エウリディケを亡くしたオルフェウスは、彼女のことを諦めきれずに冥界に下る。心を込めて琴を奏で、その音色で冥界の王と王妃の心を動かして、 『地上に辿り着くまで、妻を振り向かなければ連れて帰っていいよ』って許しをもらうんだけど、最後の最後で振り返ってしまって……っていう悲しいお話。
 だから、最重要ってゆーか、必要不可欠な小道具は琴のはずなんだ。だけど、生徒たちの練習風景を見る限りじゃ、様子が少し違ってる。
「松永くんが主役のオルフェウスなんだよね。何で彼ギターなんか提げてんの?」
 委員長を掴まえて尋ねてみた。彼女はちょっと得意げな顔つきをして、胸を張って教えてくれた。
「現代風にアレンジをしてみました。三年八組のオルフェウスは、ストリートミュージシャンの設定なんですよ」
 なるほど、吟遊詩人がストリートミュージシャンに化けたから、琴もギターに変わったっていうわけだ。
 赤ペンで色々と書き加えられた台本を見せてもらうと、所々に『ギター生演奏』ってト書きが入っている。
「へえ、なかなか面白いアイデアだね」
 オルフェウスの演奏シーンはこの劇のキモだ。神話的な意味合いは損なわれるかもしれないけど、いかにも作りものですって感じの琴に効果音を合わせるよりも、実際にその場面でギターを弾く方が、 迫力が生まれるし情感だって込められるだろう。
「はいっ。うちのクラス、文化祭でも体育祭でも優勝狙ってますから!」
 ははっ。もう九月の体育祭のことまで考えてるんだ。みんなで頑張った記憶は、きっといい思い出になるよ。二つの栄冠に輝けるといいね。


*****


オルフェウス「ああ……、地上の眩しい光が見える――。出口だ! エウリディケ!」
 (オルフェウス、喜び勇んでエウリディケを振り返る)
エウリディケ「オルフェウス……!!」
 (冥界の闇A・B、エウリディケを捉えて引き戻そうとする)
 (オルフェウスとエウリディケの固く繋いでいた手がほどかれる。切なく見つめ合う二人。互いに手を伸ばしたまま離されてゆく二人)
オルフェウス「エウリディケー!!」
 (冥界の闇A・Bに連れ戻され、エウリディケ退場)←スポットライト効果的に使うこと!!
 (一人舞台に残されて呆然とするオルフェウス)
オルフェウス「ああっ……、僕は……、僕は……、何て愚かな失敗を……!」
 (頭を抱え、絶望するオルフェウス)
オルフェウス「……エウリディケ……」
 (――暗転)


「熱演だったねえ、広瀬さん」
 三年八組の教室ではまだ、劇の練習が繰り広げられている。小さく拍手をしながら俺は、ひとまず出番の終わったエウリディケ役の広瀬さんに話しかけた。
「松永くんが上手いから、あたしも引っ張られて良く見えるんですよ」
 劇のヒロインに選ばれるわけだから、広瀬さんはぱっと目を惹く華のある子だ。色白のふっくらした頬を赤くして、照れている様子はとても可愛い。
「確かに、すごく上手いよね、松永くん」
 たかが高校文化祭の劇の練習だっていうのに、ぐいぐいと引き込まれて観てしまったのは、オルフェウス役の松永くんが素人目にも上手だからだ。何て説明したらいいんだろう?  他の子たちが台詞を読みながら、それっぽい感じの表情や動作をしている中で、松永くんだけがしっかりとオルフェウスになりきって、身体全体で表現してるって感じ。
「役者志望だから、松永くん。彼、舞台俳優になりたいんだって」
「へえ……」
 高校って場所には生徒たちの、原石の夢ってやつがごろごろと転がっている。そのうちの一体幾つが、いつか叶えられることになるんだろう?
「及川先生って」
「うん?」
「高校の時って、彼女いた?」
 ストレートな質問に笑ってしまった。女の子はほんと好きだよなあ。この手の話題。
「いたよ」
「どんな人? 同級生?」
「ううん。一こ年上の綺麗なお姉さん」
 俺の返事が予想外だったのか、広瀬さんはマスカラで丁寧に上げた長い睫をぱちぱちとさせた。
「へえー、やるなあ。どこで知り合ったの?」
 答えるのになんとなく、間をおいてしまった。
 もたれた窓の外からは、グラウンドで練習をしている、運動部員たちの掛け声が聞こえてくる。制服を着たオルフェウスは、暗く沈んだ眼差しをして、悲しすぎる旋律を奏でている。
 ああ……、こんな子たちと、こんな時間に、こんな空間にいるからだよ。幾つかの想い出が、微かな痛みと一緒になって、俺の脳裏にフラッシュバックした。
「ここで。この、高校で――。部活の先輩だったんだ、彼女」
「へえー……」
 どうやらその答えが、何かのツボに嵌ったらしい。広瀬さんの目が、俺に対する好奇心でらんらんと輝き始めた。
「及川先生、大学どこ行ってるって言ってたっけ?」
「K美大だよ」
「K美大ってどこにあんの?」
「I県のK市」
 K美大のKはそのまんまK市のKです。
「I県って、えーじゃあ思いっきり県外じゃない! 先生向こうで一人暮らししてるんだ」
「うん。今は教育実習で、実家に帰ってきてるけどね」
「そうだよね。I県かあ、むちゃくちゃ遠いなあ……」
「遠いよー」
 日本は狭い狭いっていうけれど、俺みたいな脛かじりの大学生にはやっぱり広い。K市から戻ってこようと思ったら、時間もお金もたっぷりとかかってしまうんだ。
「志望校決めたの、いつ頃?」
「うーん……。美大に行きたいっていうのは、一年の時から漠然と思ってたけど、K美にしようって決めたのは、二年の秋ぐらいかな」
「それ、彼女に言った?」
「勿論、言ったよ」
「先生の彼女ね、その時、どうした? 怒った? 拗ねた? それとも、泣いた?」
「そだね。背中――、蹴っ飛ばしてくれたよ」
 思い出す度に、心と一緒に背中が疼く、甘くて痛いセイシュンってやつだ。広瀬さんは思いっきり、きょとんとした顔をした。
「先生彼女に背中蹴られたの? 本当に? 冗談じゃなくて?」
「うん。問答無用で回し蹴り一発、手加減ってゆーか足加減なしだよ。もうマジで痛くて、何するんだよって思ったんだけど――」
 その直後に、彼女が俺に言ってくれた言葉は、今でも鮮明に覚えている。
「自分のことなんか気にしちゃ駄目だって。叶えたい夢があるんなら、前だけ見て進めって。その時が来たらきっぱりさっぱり捨ててあげるから、思いっきりやりたいこと、やってこいって――、さ」
「かあっこいい」
「でしょ。たまーに猟奇的なんだけど、俺ほんと大好きでさ……。すっごい自慢の彼女だったんだ。K美受かって、いよいよ向こうへ引っ越すってなった時に、予告通りにきっぱりさっぱり捨てられちゃったけどね」
「何だかそれじゃ、先生のがかわいそーだよ」
 ううん、きっと、そうじゃないんだよ――。
 限られた時間の中で俺たちは、精一杯にお互いのことを想い合うことができた。一生の宝物になる想い出を、一つ一つ大切に積み重ねてゆくことができた。甘ったれな俺が恋しさを募らせて振り返り、 寂しさに負けて潰れてしまわないように、彼女は俺を突き放してくれたんだ。
 広瀬さんは、ごめん先生止まんないって、しばらく笑い続けて、それから。
 笑い過ぎて潤んだふりをした瞳で、切なそうに松永くんを見つめた。
「先生、あたしの彼氏ね、東京の大学が第一志望なんだ」
「うん」
「あたしは地元。親が心配するし、お金のこともあるから、東京の学校なんて絶対行けない」
「うん」
「初めてそれ、聞いたときにね、あたし、馬鹿みたいに泣いちゃったから……。今彼、あたしの為に地元に残ろうかって悩んでくれてるの。だけど彼には、ちゃんとした将来の目標があるんだもん。 ほんとに本気でその大学に行きたいんだってわかってるんだ。行かせてあげた方がいいんだってわかってるんだ。寂しいけど、悲しいけど、苦しいけど、辛いけど……。あたしも先生の昔の彼女みたいに、 彼の背中、蹴っ飛ばしてあげられるかなあ……?」
「うん……。そうだね……」
 人を励ますのって、すごくすごく、難しいことだ。
 その人が一番、掛けて欲しいって望んでいる言葉が、時にとても厳しくて、何よりも痛いってことだってある。
 だから俺は、せめて真心を込めようって思うんだ。人の心を撫でるその言葉が、薄っぺらにも、鋭くもならないように。
「広瀬さんの中にね、今と未来の彼のことを、応援してあげたいって気持ちがあるんだったら、きっとできると思うよ」
「……はい」
 きゅっと唇を結んで、広瀬さんは小さく頷いた。
 ああ……、『及川先生』の言葉は多分、いつもの『及川大夢』の言葉なんかよりも、ずっとずっと重いんだ。俺は今、この子の背中を蹴って、重大な決心をさせてしまったのかもしれない。
 遠く離れてしまうことが、そのまま全部、別れの始まりになるってわけじゃあないんだよ――。
 言ってあげようかどうしようかって、しばらく迷って、やっぱりやめた。
 それがたとえ真実でも、優しい慰めのつもりでも、俺の声で紡いでしまったら、真っ赤な嘘になってしまうって気がしたんだ。


*****


「おーい。下校の時間はとっくに過ぎてるぞー」
 教室の扉がガラッと開かれて、その向こうからタモさんが顔を覗かせた。
「はーい。すみませーん」
 女の子たちもタモさんには調子良く返事をして、だらだらとだけど帰り仕度を始めた。それとも最後の場面まで練習できたみたいだから、みんな満足をしたのかな?
「及川先生、ちょっと」
 怖っ。
 表情筋はにっこりしてるけど、俺を見つけたタモさんの目は笑っていない。ちょいちょいと手招かれたから、首をすくめて近づいて行ったら、案の定お説教が待っていた。
「大夢、何時だ? 今」
「ええと……、六時……四十五分、です」
「だな。お前生徒に交じって今まで何してた? 俺は教室にいる生徒たちを、六時半になるから帰らせて来てくれって頼んだはずだよな?」
「そうでした。タモさん、ごめんっ!」
 両手を合わせて謝りますからどうかお許しを。
「ごめんじゃないぞ、大夢。実習は遊びでやらせているわけじゃないんだ。それから、社会人のけじめってもんがあるだろう。生徒の前でタモさんはいかん、田守先生と呼ばないか」
「けじめって……、タモさ――田守先生だって俺のこと、今大夢って下の名前で呼んでたじゃないかー」
 するとタモさんはすっと目を細めて、低い声音で俺を脅した。
「そうやって減らないお口には、濃い目に淹れたコーヒーを、ブラックのまま流し込んでやってもいいんだぞ? 及川先生」
「うわ、田守先生、横暴っ!」
 そのめまいがするような苦さを想像して、俺は思わず口元を覆った。そそそそれだけは絶対にごめんだー!!
「えー、及川先生って、コーヒーブラックで飲めないんですかー?」
 俺たちの会話を小耳に挟んで、誰かが大きな声を上げた。タモさんはお仕置きのように、しみじみと暴露してくれる。
「及川先生はな、コーヒーに砂糖を四つも入れるんだぞ」
「えーっ!? それってひどくない?」
「及川先生子供みたーい」
「カッコ悪ーい」
「でも可愛いー」
 俺の甘党ぶりに盛り上がり、女の子たちは明るくはやしたてる。困りながらだけど俺は、彼女たちが着ている懐かしい制服に、やけに感傷的になってしまっていた。
 あの頃見ていた夢に、俺が行き詰まって悩んでいることを知ったら、あの人は何を思うだろう……?

 ごめんね……。
 あなたのくれた優しさを踏みにじって、俺は今ここにいるのかもしれない。


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