教生模様


国語科 2日目 「先生の大船に乗せ給ふ事」


 中間考査が昨日で終わって、今日から母校は平常授業。
 私たちの教育実習も、本日二日目からが本格始動です。
 スパルタ式指導の教官の下、いきなり教壇に立たされているような人もいますが、私の授業実習は明後日から。ということで、今日は朝からひたすらに、国語科の先生方に授業見学をさせてもらっています。
 必要なのはノートに筆記用具。立ったままでメモを取らなければいけませんから、バインダーがあると便利です。そうそう、三輪先生の授業の時には、お借りしている教科書も忘れずに……。

「さーちゃん今から、三輪先生のとこ行くの?」
 いそいそと準備を整えた私の手元に気付いて、祐美佳(ゆみか)が隣の席から話しかけてきました。
 英語科教生の渡部祐美佳(わたべ ゆみか)は、画一的なリクルートスーツを着ていても何だかおしゃれで、少し甘えた感じの丸顔と、器用にまとめたヘアスタイルが素敵に可愛い私の友達です。
「うん。五時間目の授業を見せて頂くから、その前に少しだけでもアドバイスがもらえたらなって」
「ふうん、熱心だよね。さーちゃんって教職志望なの?」
「そうだよ。祐美佳は違うの?」
「んーとね」
 少し溜めて、祐美佳はえへへっと笑いました。
「あたしが先生なんて、柄だと思う?」
「……ごめん、全然思わない」
「謝ることないよう。だからね、そういうこと」
「そっか」
 実習中に大きな声では言えないことですが、祐美佳にはつまり、教師になろうという気持ちはまるでないのでしょう。彼女のように免許だけを取っておこうという子は、大学の友達にも珍しくありません。
「祐美佳は五時間目どうするの?」
「えっとね、森先生の授業見学う」
「あ、じゃあ、一緒に行かない? 職員室」
 国語科の三輪先生と英語科の森先生は同じ職員室にいらっしゃいます。軽い気持ちで誘ってみましたが、祐美佳は教材を広げた机にぱたりとつっぷして、はあっと重たい溜め息をつきました。
「ううん。直接教室に行ったらいいって言われてるし、あたしぎりぎりまで準備室にいるー」
 教生準備室には今、祐美佳の元カレの榊(さかき)くんもいます。別れた彼氏と同じ空間にいて、祐美佳は息が詰まったりしないのでしょうか……? 平たくなった彼女の向こうに、榊くんの姿がちらちらと 目に入って、なんとなく私の方が気にしてしまいます。
「さーちゃんは、指導教官が三輪先生でいいなあ……」
 二人はどうして別れたんだろうとぼんやり思いながら、榊くんに気を散らしていると、祐美佳にくるんと見上げられて、どっきりとするようなことを言われました。
「そ、そう?」
「うん。あたし、三輪先生好きだもん。それにね、あたしの教官の森先生、むちゃくちゃ怖いし」
 あたし、三輪先生好きだもん――。
 さらっと告白されて、重ねてどっきりとしましたが、先生を『好き』か『嫌い』かに分けてしまうのは、好悪がはっきりとしている祐美佳らしいです。彼女が眉間に皺を寄せてまで言いたいのは、 『むちゃくちゃ』という修飾が付いた『森先生が怖い』の方でしょう。
「そんなに怖いの? 森先生って」
 まさか告げ口をする人がいるとは思いませんが、昼休みの校内の、窓も扉も気持ちよく開け放たれた準備室です。普通に話しているのがためらわれて、ちょっぴり声を潜めると、 祐美佳もこそこそと答えてくれました。
「うん。ずうっとなんだか不機嫌そうにしてて、呼んだだけでもキッて睨まれるし。ちょっとしたことでも言い方キツイし……。あたし森先生とうまくやってく自信ない……」
「そうなんだ……、たいへんそうだね」
 森先生は、私たちの卒業後に転任されてきた、年齢不詳な女の先生です。詳しく知らない先生のことをとやかく言えませんが、一緒に過ごす時間が長いのに、指導教官とそりが合わないのはたまらなく辛いでしょう。
「ほんといいなあ、さーちゃんは。あたしもそんな、楽しそうな顔して先生のとこ行きたいなあ」
 羨むようにそう言って、祐美佳はまた一つ溜め息を零しました。
「私そんな、楽しそうな顔してる?」
「してる」
 ……そんなつもりは、ないのですが……。
 私はそこまで、浮ついて見えるのでしょうか? だとしたら由々しき事態ではないでしょうか? 三輪先生にご迷惑がかからないよう、もう少し気を引き締めていかないといけません。


*****


「それじゃあ三輪先生、どーもありがとうございましたー」
 お昼休みの終わりかけた、国語科と英語科の職員室。
 ルーズリーフを胸に抱えた女の子が、ぺこりと頭を下げて立ち去ってゆきます。
 すれ違いざまに目が合ったので、にこりと笑いかけてみると、女の子は会釈を返してくれました。二年四組の子もそうじゃない子も、生徒たちは素直に可愛いと思えます。エセですが先生気分を味わえる、 ちょっとした嬉しい瞬間です。
「おや、お迎えに来てくれたんですか? 早坂先生。お昼はちゃんととりましたか?」
 入れ違うように訪れた私を、三輪先生は朗らかに迎えて下さいました。
「大丈夫です。しっかり食べてきました。今日は放課後、弓道部の練習を覗きに行く予定ですし」
「ああ、そうでしたねえ」
 私の一日のスケジュールは、指導教官である三輪先生も把握していらっしゃいます。のんびりと相槌を打たれてから、思い出したように教えて下さいました。
「今、僕の所へ質問に来ていた生徒も、そういえば弓道部の二年生ですよ」
「へえ……、そうなんですか。よく来るんですか? あの子」
 何気なく聞いてしまってから、自分の軽率さにぎくりとしました。食い付くところを間違えてしまったのは明らかです。これではまるで、やきもち焼きな勘違い女の尋問みたいです。
「まあ、ちょくちょく来る方ですね。昔のきみほどではありませんが」
「そ、そうですか……」
 昔の私が、何かと理由をつけて三輪先生のもとへと通い詰めていたのは、少しでも先生に近付きたかったからです。僅かな時間でも先生を、独占していたかったからです。
 教え子はたくさんいらっしゃるでしょうに、そんな風に、三輪先生の記憶に留めてもらっているのは嬉しいのですけれど……。あの頃のわかりやすい下心なんて、簡単に見透かされていたような気がして、 今さらながら面映ゆくもあります。
「自分でさんざんしてきておいてなんですけれど……。生徒に『先生わかりません』って押しかけて来られるのって、授業に駄目出しされるみたいで嫌じゃありませんか?」
「うーん、嫌……と感じたことはないですかねえ……。生徒は僕を頼ってきてくれるわけだし、国語に対する興味や、学ぼうとする意欲を見せてもらえるのは、無関心でいられるよりも嬉しいことだと思います。 それに、生徒たちが投げかけてくる質問の中には、授業をよりよくする為のヒントもあります。きみも実習中に質問を受ける機会があるかもしれないけれど、くさらず謙虚に受け止めてゆけば、 次に生かすこともできるでしょう」
「……はい」
 そうやって三輪先生は、ご自身の授業を練り上げてこられたのでしょう。それに比べて私は利己的で、自分の器の小ささを露呈させてしまったようで恥ずかしくなります。
「午前中、僕や他の先生方の授業を見てみてどうでしたか? 自分で教壇に立つイメージは湧いてきましたか?」
「はい、とても参考になりました。だけど……、何ていいますか、だんだん怖くなってきてしまいました。まともな授業なんて、できるでしょうか? 私に」
「まあ、無理でしょうね。誰だってね、まともにはできませんよ、最初からは」
 三輪先生はいともあっさりと断言されました。いっそ清々しいほどの否定っぷりです。
「私は素人だから……、できなくて当然ってことですか?」
「そう。だけど、素人なことに甘えていいと言っているわけではないんですよ、早坂先生。きみの授業ではきみが先生です。生徒たちの貴重な時間をもらうことになるわけです。 その責任は忘れないようにして下さい」
「……はい」
 神妙になった私を和らげるように、三輪先生は表情を崩されました。眼鏡の奥の目がふわりと細くなくなります。
「教生が未熟なのは仕方がないことです。だけどきみたちは、僕にはもう伝えられなくなったものを生徒に教えられると思っています。恥じて悔しがって落ち込んで、そこから学習してくれるなら、 間違ってくれてもいい、失敗をしてもいいんですよ。どうしようもなくなりそうだったら、僕がちゃんとカバーしてあげますから、大船に乗ったつもりで、派手にどかんとやっちゃって下さい」
「やっちゃえって……、一体何をやっちゃえっていうんですか? 変なはっぱをかけないで下さい、もうっ!」
「あはは……」
 思わず右手を固めてしまいましたが、三輪先生の大らかな笑い声に、気持ちがすうっと楽になってゆくのを感じました。
 私は……、人に物を教えるのだから完璧でなくては駄目だと、初めから先生のようにできなくては駄目だと、そして何より、先生に幻滅されたくないと――。馬鹿みたいに思い込んで、 気負い過ぎていたのかもしれません。

 昼休みの終わりを告げて、予鈴が鳴りました。あと五分で五時間目が始まります。
「さて、行きますか。次は二年七組でしたねえ」
 教材に手帳とチョーク箱を揃えて、三輪先生は立ち上がられました。軽くずれた眼鏡のフレームをそっと抑えてから、涼やかな眼差しを下さいます。
「五時間目はお腹が膨れて、居眠りをしかける子が多い時間帯です。生徒の眠気を覚まさせるにはどうすればいいのかも、考えながら観察をしてみて下さい」
「はい」
 三輪先生から学ぶということは、三輪先生を深く、知ってゆくということ――。
 怖いような、嬉しいような……。だけど、誰にも秘密の恋のリトライは後回しに、真面目な教育実習生の顔をして、私は今日も三輪先生について行くのです。


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