数学科 1日目 「予定不調和の基礎関数」
子供の頃、教育実習にやってくるお兄さんお姉さんたちは、全員が全員、先生になるのだと思っていた。
そうじゃないって学習したのは、うかつにも大学生になってからのことだ。人よりたくさん物を知っているつもりでいたけれど、
子供の僕が浸かっていた世界は、馬鹿馬鹿しいくらいに狭くてちっぽけで、案外に純粋だったってことだろう。
一月前、第一志望の企業から内定を貰った。嬉しいとか誇らしいとかっていうよりも、面倒極まりない就職活動に、
納得のいく形でケリがつけられてホッとした。
大学卒業後の僕の進路は、だからもう、確定している。誰もが名前を知っているような、大手メーカーに入社して、教職とは
無縁のサラリーマンになる。
昔はいわゆる『聖職』ってやつに、漠然とした夢や希望を抱いていたけれど、ある時僕は気がついたんだ。子供の相手も人付き
合いも、あんまり得意じゃないんだってことに。
それでも僕は、今日から二週間の教育実習へ行くことになる。たいした思い出も思い入れもない母校で、生意気盛りの高校生
に数学を教えるんだ。
教職課程を全うするために――、ね。
教師になるつもりがなくなったからって、ここまできて、資格を取れなきゃカッコが悪い。中学じゃなくて高校教員の免許を選んだ
のは、介護実習になんか行きたくなかったし、教育実習の拘束期間が一週間も短くて済むからさ。
それに、高校数学の教員免許を持っているって言ったら、頭が良いように見られそうっていうか、上等な人間になった気がするじゃないか。
学校が好きでも、憧れた先生がいたわけでもないのに、教師を目指そうと思った子供の頃から、僕はただ、自分自身の優越感を満た
してくれる、確固たる証明が欲しいだけだったのかもしれない。
*****
教育実習初日の今日、母校は中間テストの最終日。何だってそんな日から始めるんだって思うけど、高校ってやつは、
そういえばやたらめったらに行事が多かった。僕らの実習が終わった直後には、文化祭が控えているんだってさ。
そんなこんなでピリピリとした空気が漂う中、ノコノコとやってきた僕たちはまるで邪魔者扱いで、職員朝礼までの無為な
時間を、進路指導室に押し込められている。
今日ここに集まった教生は、よくある話でみんなこの高校の同窓生。その中でも半数以上が、僕と同じ年度の卒業生であるらしい。
だから、過去にクラスメイトだったり、可愛い子だから印象に残っていたりして、どことなく見覚えのある顔も並んでいる。
だけど、僕には自分から声をかけたいと思うほど、親しみとか懐かしさを感じるようなやつはいない。
手持ちぶさたでただ待っている、という行為は本当につまらない。監視カメラが付いているわけじゃあないけれど、
さすがにそれは不味いかと思って、僕は生欠伸を噛み殺した。メールでもしているのか、ずっと携帯をいじくっている女子もいる
けれど、この場面でその態度は一体どうなんだ? 暇なのはよーくわかるけどさ、良識ある僕には真似できないね。
「はーい、お早うございまーす」
からりと引き戸を開けて、若い女の人が進路指導室に入ってきた。幾何学模様のワンピースを着て、茶色く染めた髪をくるくると
巻いた、何というか……学校職員らしからぬ華やかな人だ。僕の記憶にはないけれど、白衣を羽織っている、ということは、やっぱり
この人、教師なんだろうか?
「お早うございます」
なんてことを考えながら、周囲に合わせる格好で、僕もみなと一緒に立ち上がって、形ばかりの挨拶をする。
「お待たせしました。全員揃っていますか? 一、二、三、四、五、六……、十三っと。あら? 一人足りないわね」
軽く指先を動かしながら、教生の人数を数え上げて、白衣の女の人は眉を顰めた。
「及川(おいかわ)くんじゃありませんか? まだ来ていないの」
女子の一人が遠慮がちに発言した。そうだ及川だ。及川がいないぞって、数人がざわざわと同調したけれど、
僕にはわからないから黙っていた。教生同士は一週間前のガイダンスで、たった一度顔合わせをしただけなのに、よくもまあ他人のこと
まで覚えていられるもんだ。
「K美大の及川大夢(おいかわ ひろむ)くんね。仕方がないわねえ……」
女の人は、手元の資料に視線を落しながら溜め息をついた。見えなくたってわかる。それは教生の名簿か何かなんだろう。
それにしても、その及川ってやつはきっと、自己管理もまともにできないような馬鹿に違いない。一人で落ち零れるのは勝手だけど、
僕ら全体の評判まで貶めるのはやめてくれよ。どんなやつだっていわれると、ろくに顔だって覚えていないけどさ。
「あ、そうそう、市立大学の各務沼京介(かがみぬま きょうすけ)くんて、どの子かな?」
「はい。僕ですけど」
素直に答えて、僕は軽く手を上げた。この流れで名前を呼ばれるのは、何となく心外だったけど。
「キミがね、うん――」
「何ですか?」
他人にじっと見られていると、むずむずとして落ち着かない。用があるっていうんなら、頼むからさっさと済ませて欲しい。
「あのね、各務沼くん。ちょっと、言い辛いことなんだけど……。キミの指導教官の音羽(おとわ)先生が、今朝方ぎっくり
腰になられたそうでねえ……。なんでも、お一人では立ち上がることもできない状態らしくって、しばらくお休みされることになっ
たのよ」
「――は?」
………………、何だよそれーっ!!
「それじゃあ僕の実習はどうなるんですかっ!?」
焦りまくって僕は尋ねた。多少のアクシデントは付きものらしいけど、のっけからこんな酷いのは聞いたことがないぞ! 指導してくれる先生がいなかったら、
教育実習なんて成り立たないじゃないか!!
「あ、うん、だからね。音羽先生が復帰されるまで、あたしがキミの指導教官。二年三組副担任の東本アヤメ
(ひがしもと あやめ)。よろしくね」
僕の剣幕にたじろぐこともなく、東本先生はほわわーんと微笑んだ。
……毒気を抜かれた。
間近に接するのも、注意を受けるのも、ちょっと冷静になって考えてみれば、定年間際の腰が砕けたじーさんよりも、
若い女の先生の方が良いに決まっている。
僕にだけ向けられた、東本先生の笑顔はどっきりとするくらいに綺麗で、僕は不覚にも、これは結構ラッキーかもしれない、
なんて思ってしまった。そんな甘い考えが、大間違いだってことには、この後すぐに気付かされるわけなんだけれど。
「あ、はい……。こちらこそよろしくお願いします……。東本先生も、数学の先生だったんですね」
「ううん。家庭科よー」
ざっぱりと、頭のてっぺんから冷水を浴びせかけるような台詞を、東本先生は朗らかにのたまった。
「か……家庭科……?」
「そう、家庭科」
納得できたような、できないような……回答、だ、ぞ……。
急激に頭が、痛くなってきた……。
「あの、僕は、家庭科じゃなくて、数学の実習をしにきたんですけど……」
「そんなこと、知ってるわよう。大丈夫、大丈夫。あたしがキミの面倒を見るのは、二年三組のホームルームだけだもの。
教材研究だとか授業の相談にはね、教科担当の先生が別に付いて下さるから」
「ええと……、それで。それには、誰が……?」
不安と不信と不満を募らせてゆく僕に、東本先生は無責任に答えた。
「さあねえ。あたし、数学科のことはよくわかんないわー。なんせ急なことだったし、今頃くじ引きでもなさっているんじゃないかしら?」
く、くじ引きだって……?
冗談にしてもほどがあるし、本当だったらもっと嫌だぞ。
ああだけど、想像、できてしまった。数学の先生たちはつまり、降って湧いたお荷物の僕を押しつけ合っているってことなのか……?
彼らには、後輩育成の気持ちがないのか……? プロの教育者たるもの、そんなことでいいのか……?
「――二週間、頑張って乗り切ろうな、各務沼」
ぐるぐると駆け巡る思考に支配され、動けなくなっていた僕の呪縛を解くように、教生の誰かが、背後から肩をぽんと叩いた。
気がつけば、教生たちの憐れむような視線が、この僕一人に集中している。
嫌だっ、こいつらなんかに、同情されてたまるもんか――!!
「それじゃあみなさん、職員室に移動しましょうねー」
東本先生の引率の声が、能天気に明るく響き渡る。
僕の教育実習は、予想以上に前途多難。教師という職業を、僕は大嫌いになりそうだ。