教生模様


数学科 2日目 「混迷を深める代数」


 目の前の困難に最善を尽くそうとか、がぜん張り切って燃え上がるとか、そんな気概は生まれてこの方持ったことがない。
 障害なんか、できるだけ避けて通りたい。降って湧いた災難に喜ぶようなヤツは、根っからのマゾか、変な新興宗教にかぶれているかのどっちかだ。


*****


 テスト期間の時間割は午前中で終わる。担当ホームルームの二年三組で自己紹介をして、東本先生がもたもたと、帰りのショートホームルームをするのを眺めて……。 僕は昨日結局、その後ずーっと放置されて定時で下校した。
 音羽先生の代理で、急遽僕の教科指導をしてくれることになった神保(じんぼ)という先生は、昨日出張で学校にいなかった。数学教諭は他にもいるのに、よりにもよって、 不在中の先生に決まった訳が気になって、東本先生に尋ねてみると、
「多分ねえ、代わりにくじ引いた人が当たりを引いたのよー」
 などと適当に返された。当たりじゃなくて貧乏くじだろう。
 真偽を確かめるのも馬鹿馬鹿しくなって、不貞腐れていると教頭先生が、僕が授業をするクラスとの兼ね合いだって教えてくれた。まともな理由に少しだけほっとした。
 そうして今朝、神保先生との顔合わせのために、僕は始業時間より一時間も早くに登校している。東本先生は頼りにできそうにないし、神保先生は全然知らない先生だし、先行き不透明で気が重い。 この心的負担だけでも買って、実習の出来を問わずに、いい評価をつけて欲しいよ、はあ……。

 絶対僕が一番だと思っていたのに、足取り重く辿り着いた教生準備室には人影があった。どれだけやる気なんだよって呆れるようなその女子は、机に雑巾がけをしていた手を休めて、 清々しく僕に笑いかけてきた。
「おはよう、各務沼くん」
 僕は根っから理系の人間だ。
 高校二年の時から、女子が一桁しかいないような男子クラス。今いる大学のゼミも男ばっかりだ。特別目立つような容姿じゃないし、すぐに人と慣れ合えるような性格でもないし……。 朝の教室で、女の子からこんな爽やかに挨拶をされたのは、僕の人生で何度目の経験だろう――?
「おっ、おはよう、ええと……、準備室の掃除してくれてたんだ」
 黒いパンツスーツの上着を脱いで腕まくりをした、白いブラウスの胸には名札が付いていなくて、残念ながら僕は彼女の名前を呼び返すことができなかった。身長百六十八センチの僕と、 そうかわらないぐらいに背が高くて、真っ黒な髪は清楚な感じのショートで、すっきりした顔立ちのこの子は……。確か僕と同じ学年だったっていう、国語科の教生だ。
「うん。遅刻できないって思うと落ち着かなくて、早く来ちゃったから……。えっとその、生徒たちの清掃時間は放課後にあるけれど、教生準備室の掃除の時間って決まっていないでしょう?  みんなここにいることが多いと思うし、少しでも気持ちよく過ごせたらいいなって」
 手にした雑巾を捻くりながら彼女は、そんな言い訳を僕にした。面倒くさいな、僕にどう答えろっていうんだろう? 誰に頼まれたわけでもないんだし、見つかって照れるようなことなら、 最初からやらなきゃいいのにさ。
「あの、僕も、手伝った方がいいのかな?」
「ありがとう、だけど大丈夫。もうちょっとでおしまいだから」
「そう」
 そりゃよかった。
 心底僕はほっとしたね。
 掃除なんて、毎日しなくても死にやしない。だいたい教生準備室は、埃の積もった空き教室だったのを、昨日全員で綺麗にしたばかりなんだ。後からのうのうと出勤してくるやつらは、 どうせ何も気付かないし、知ったところで少しの感謝も抱かないに決まってる。
「じゃあ僕は、数学科の教官のとこに行かせてもらうから」
「うん、行ってらっしゃい」
 端の机に荷物を置いて、要りそうなものだけを取り出して、僕はそそくさと準備室を後にした。彼女はこれから毎日、朝一番に登校して、こっそり掃除をするつもりなんだろうか?  『いい子』の気配りはむず痒くて、僕にはひどく居心地が悪かった。


*****


「お早うございます。失礼します」
「お、ちゃんと出てきたな、各務沼」
 数学科の職員室に顔を出すと、すぐそこにいた昔の担任に感心感心と頷かれた。先生のベルトに乗った贅肉と寂しくなった頭髪に、年月の非情というものを感じる。
「出てきますよ、当たり前じゃないですか。期間中欠勤しないって条件で、実習受け入れてもらってるんですから」
「そらまあそうなんだけどなあ……。たまにいるんだよ、途中で挫けて、ばったり来なくなる教生が。各務沼は事前にきっちり計画立ててから、物事に取り組むようなタイプだろう?  出端から調子を狂わされて、相当応えたんじゃないかって、先生は心配してたんだぞう」
「そう、ですか」
 それなら最初から、先生が僕の教官になってくれていたらよかったのに。八つ当たりだって自覚はあるけれど、わかった風に分析されて何となく苛立った。
「ところであの……、神保先生って……?」
「俺だ俺だ」
 昔の担任に尋ねたつもりだったけど、今にも雪崩を起こしそうな本立てを越えて、答えは直接本人の口から返ってきた。見た感じだと、三十代の半ばくらい、なんだろうか……?  血色の悪い骨張った顔の男の人が、こめかみを押さえながらひょろっと立ち上がった。
「えーと確か、各務沼せんせーつったけな……? 俺が神保だ、おはよーさん。とりあえず俺は頭が痛い。この出勤簿にハンコつき終ったら、頭痛を治しに喫煙室行こうか」
「は、はあ……?」
 頭が痛いのに煙草なんて吸ったら、よけいに悪化するんじゃないだろうか……? 言われるまま出勤簿に捺印をした僕は、よくわからない理屈で神保先生に、喫煙室へと連れ去られた。


*****


 朝の喫煙室は無人だったけれど、蓄積されたニコチンでヤニ臭い。部屋の電気を付けて、外側の窓を全開にして、換気扇を回して。適当なパイプ椅子に掛けた神保先生は、 襟を崩したワイシャツの胸ポケットからへしゃげた煙草の箱を取り出した。会議テーブルの上でアルミの灰皿を引き寄せて、それからやっと思い出したように、突っ立ったままの僕に顎をしゃくる。
「座れば? そのへん」
「はあ……」
 横柄な勧めに生返事をして、僕は先生と差し向かいの椅子に腰を下ろした。神保先生は僕に断ってくれることもなく、早々とくわえた煙草の先に、安っぽい蛍光黄緑の百円ライターで火をつけている。 そのままぼんやり眺めていると、煙草を持った左肘をテーブルにつき、不味そうに一服を味わって、ふーっと長く上向き加減に吐き出した。これまでよりも眉をしかめて、右の拳でぐりぐりと こめかみをほぐしているのは、やっぱり痛みが増したからなんじゃないだろうか?
「何か言いたげだな」
 僕の視線に気付いて、神保先生はつまらなさそうに唇を曲げた。返事を待たれて僕は一応、心配をしているふりをする。
「いえその……、頭痛は大丈夫なんですか?」
「ああ、こいつ吸ってりゃ、そのうちましになんだろう」
 こいつって……、神保先生の頭痛はつまり、ヤニ切れの禁断症状ってやつなのか?  節制できないだらしなさに唖然として僕は、ずうずうしくまとわり寄ってくる副流煙に、もう少し離れて座らなかったことを後悔した。
「最初に言っとくわ。俺はあくまで急場しのぎのピンチヒッターだから。音羽先生が出てきた時点で、各務沼先生の指導教官は音羽先生に戻る。だから授業も、俺が受け持っている数学Bじゃなくて、 ガイダンスでの発表通り、音羽先生の数学IIをやってもらう」
「はい」
 異存はない、というよりも、今さら科目の変更を言い渡されることの方がキツイ。ひとまずは胸を撫で下ろした僕の前に、くわえ煙草をふかしながら神保先生は、A4の紙を一枚つつっと滑らせてきた。
「これが、各務沼先生の授業実習の予定表。渡しておくからつもりをしておいてくれ。それから研究授業の日時なんだが、悪いが俺の一存で決めさせてもらった。 音羽先生の復帰日は、まだはっきりしていない。俺も確実に観てやれる、時限となると限られてくるから」
 研究授業というのは、多くの先生に参観を依頼し、大学からも教員を呼んで、その後で講評をもらう特別な授業のことだ。授業実習なんて究極をいえば、これ一回こっきりだっていい。
「あ、はい、構いません。それは仕方がないって思いますから」
「だよなあ。各務沼先生は、物分かりがよくて助かるわ。ああ、研究授業はここ、この日のこの時限にしたからな。早めに大学ヘ連絡しとけよ」
 とんとんと紙面をつつく、神保先生の指先に誘導されて、もらった予定表に目を落とした僕は、その過酷なスケジュールに愕然とした。
「え、な……? こんなにたくさん、僕が授業するんですか……?」
 今週の金曜日から来週の木曜日まで、数えてみれば五日間で、四クラス十六時間。水曜日なんか一日四時間もあって、恐ろしいことに、一時間目から三時間目まではぶっ通しになっている! おまけにこの、今日と明日と明後日に二時間ずつ入れられている、 自習監督っていうのは一体何だ……? 他にここには書かれていないけれど、二年三組のロングホームルームと、総合的な学習の指導も一時間ずつあるはずで――。
「せっかく持ち上げてやった傍から、なーに甘えてるかねえ、このお坊ちゃんは。こんなにも何もあるかい、おまえさん現場へ経験積みにきてるんだろう? 授業の場数をたっぷりと、踏ませてやろうっていってん だからありがたく思え」
 長く伸びた煙草の灰をとんと灰皿に落して、神保先生は邪魔くさそうにそう言った。おっ、恩着せがましいっ……! これってどう考えたって、音羽先生の欠勤の穴埋めを、 僕に押しつけているだけじゃないのか!?
「ですけどっ……!」
 頭にかーっと血が上って、ちゃんとした言葉が出てこないかわりに、唇の端がひくひくした。腹立たしさと紫煙のせいで、頭の中の酸素が薄い。
「……不平があるんだろうけどな、それは俺だって同じなんだよ。こっちはこっちで調整がたいへんなんだ。ぎすぎすしてないで仲良くやろうや」
 思わず椅子を蹴って立ち上がっていた僕を、神保先生は冷たく見据えた。鋭さのある三白眼の下に、落ち窪んだ隈をくっきりと浮き立たせた顔は迫力で、すごすごと僕は引き下がるしかなかった。
「はい……」
「ああそうだ、それから、もうわかっていると思うけどな、音羽先生が休みな分、単元が前にずれることになるから。気の毒だとは思うが、数学は順を追ってじゃないと教えられないっていうのは理解できる だろう? そのために三日、取ってやったつもりだ、骨は拾ってやるから死ぬ気で頑張んな」
「……え?」
 ぎゅっと上から押され込まれた頭を、さらに鈍器で殴られた気分で僕は固まった。
 数学IIっていうのは四単位、つまり授業が一週間に四回もある科目だ。ガイダンスの日の打ち合わせで、僕が音羽先生から指示されたのは三回分の内容で……。 教育実習っていうのは教壇に立つ前に、本職の先生の授業を見学させてもらうのが普通で……。となると僕が授業をするのは、当然実習後半の予定だったわけで……。 てことは単純に考えれば、せっかく昨日までにやってきた、授業の準備が全部無駄? ってことになるわけで……。ええと……、この状況はひょとしたら、まるっと一からやり直し……?
「ええっ!? 無理ですよっ、むちゃくちゃですよっ! そんなのっ……!」
 単元が変わってしまうんじゃ、科目の変更とたいして差異がない。いやむしろ、同じ数だけ授業をするとしたら、二単位しかない数学Bを教える方が、繰り返しが多くてましかもしれない!
「やってみる前から投げ出すんじゃない! そんな逃げ腰で、社会に出てから通用するかい。それからこれはな、第一に生徒のための措置なんだよ。音羽先生は去年も、ヘルニアのぎっくり腰で十日以上欠勤してる。 本当だったら授業の遅れが最小限で済むように、さっさと別科目と振替えちまいたいところなんだ。けどな、教生がぞろぞろと十四人も来ているせいで、 この二週間は時間割を組み直せないんだよ。責任の一端はおまえさんにもあるんだから、腹を括って『先生』をやれ!」
 びしりと僕をどやしつけて神保先生は、吸い終わった煙草の先を灰皿で押し潰した。そうして不意に思いついたように、煙草の箱の口を僕に差し向けた。
「ところで各務沼先生、一本吸うか? イライラし通しは身体に毒だぞ」
「結構です!」
「あっそ」
 それは神保先生の鎮痛剤かもしれない。だけど、僕にとってはストレスを倍増させる害毒だ! 今日よりも明日、明日よりも明後日……、僕の心身は確実に蝕まれていくことだろう……。


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