世界夢幻遊覧


世界夢幻遊覧 1


「これでよし、っと」
 机上に広げた厚手の紙に最後の一筆を走らせると、パシャは一言呟いて、 軽くすすいだ絵筆の先を乾いた布できゅっと拭った。
「うーん実に、会心の出来じゃないか。流石はあたしだ、良い腕してるねえ」
 まだ染料が渇ききらない紙を矯めつ眇めつしながら、パシャはそれはそれは満足げに 自画自賛した。精緻な線で描き込まれた太陽や波を、大きく開け放した窓から流れ込む、 港町の喧騒と潮風が撫でる。
「パシャ」
 パシャの独白が聞こえたのか、部屋の間仕切りに掛けている空色の帳を分けて、 相棒ジーリが赤銅色の丸顔を覗かせた。
「荷はすっかり纏め終わってるぞ。後はお前が来りゃあいいだけだ。 準備はできてんのか?」
「ああ、ジーリ。見てよこれ、最高だろう?」
 パシャはぎしぎしと軋む籐椅子の背にもたれかかったまま、 軽く腰を捻るようにして相棒を振り返った。陽気に笑う瑠璃色の瞳に促され、 ジーリはパシャに近づいて、うさんくさげに机の上を覗き込む。
「……何だ? これ?」
「南海の秘宝の地図」
 得意気に答えるパシャに、ジーリはげんなりと頭を抱えた。
「お前、また……、こんな嘘っぱちを描くのにたっぷり時間を割きやがって。 これ一枚仕上げる間に、もっと精確で実用的なやつをいくらだって刷れんだろ?」
「いいじゃないか、こんなにも巧く描けてんだ。 ひょっとしたらどっかの好事家が目を留めて、高値を付けて買ってくれるかもしんないよ。 それに、トルイの市場じゃあ目立ってなんぼなんだ。 額縁を付けて飾ったら、絶対見栄えのいい看板になるって」
「額縁だあ? そんなもん一体どこにあるんだよ」
 渋面をつくるジーリの鼻先を弾いて、パシャはちっちっと舌を鳴らした。
「馬鹿だね、ジーリ。ここは何でも売ってるトルイの街じゃないか」
「また無駄遣いするんかい。こんな詐欺紛いのもん飾る為に」
 呆れ果てるジーリを拗ねたような目つきで見上げて、パシャは赤く塗った唇を尖らせた。
「煩いねえ、お天道様はもう、こーんな高くに昇ってんだ。 しみったれたことばっか言ってないで、さっさといい場所取りに行くよっ」


*****


 共和都市トルイ。女神の腕(かいな)に譬えられる、 細い半島の先に築かれた巨大な城塞都市は、古くから北の大陸の玄関口として、 海洋交易で栄えてきた商人の街である。
 北の大陸と南の大陸。白い肌の人々と赤い肌の人々。 二つの人種の血が混じり、二つの大陸文化が融合する都。 数多の民族が行き交い、雑多な言語が飛び交う、 手に入らないものはないと謳われる世界有数の商都だ。
「ジーリー、あったよー」
「おう」
 古ぼけた木彫りの額縁を脇に抱えて、パシャは上機嫌で相棒の元に戻ってきた。 パシャが蚤の市を物色しながら彷徨っている間に、 すっかりと準備を整えた露店の奥に腰を据え、ジーリは黙々と釣銭を数えている。 適当な木箱に立てかけて、パシャの力作『南海の秘宝の地図』を店先に飾れば、 二人の店はいよいよ完成だ。
 眩い太陽の欠片がきらめく、雲ひとつない上天気。広大な内海の紺碧の波は凪ぎ、 人や荷を満載した大小の船が、とりどりの国旗をはためかせながら次々と波止場に発着する。
 世界各地から訪れる、旅客や水夫を客にあてこんで、 港広場に開かれた青空市場の陽射しはきつい。 ずんぐりとしたジーリの身体でできた丸い日陰に、涼を求めにやってきたのか、 大きな白い毛玉がごろりと転がっていた。
「……猫?」
 パシャが近くに屈みこんで見てみると、赤い首輪を嵌めたでっぷりと太った猫である。 猫は薄く目を開けて、邪魔くさげにパシャを一瞥すると、 ふてぶてしく大口を開けて欠伸をした。
「ずいぶんとまあ貫禄のあるお腹だねえ、ジーリといい勝負じゃないか」
 憎まれ口を叩きながら、パシャは悪戯心を刺激されて猫の脇腹をくすぐった。 猫はぶにゃあと迷惑そうに鳴いて、思いの外敏捷に起き上がると、 そのまま並べた商品を蹴飛ばして、露店を斜めに突っ切ってゆこうとした。
「こっ、こらっ、こんなとこで暴れんじゃないよっ!」
 店開きをする前から、大事な売り物を荒らされてしまってはたまらない。 パシャは焦りに焦ってはっしと猫の首根っこを取り押さえた。
「あーあ……、何してくれてんだ、おい」
 ジーリが嘆くようにぼやいて、猫というよりパシャが崩した商品の山を、 きっちりと丁寧に積み直し始めた。
「何って、この子が――、痛たたたたっ」
「ああっ! 見つけたあっ!!」
「え?」
 強引に抱き上げた猫に引っかき傷を作られながら、 パシャが甲高い声がした方向へ視線を転じると、大きな眼鏡をかけた声変わり前の少年が、 海竜の像が身をくねらせる台座の上によじ登り、こちらを向いて懸命に両手を振っていた。
「お姉さんそのままっ、そのままっ、お願いだから放さないでっ!!」
 少年は懇願し、見ているパシャが冷や冷やとするような危なげな身のこなしで 台座から下りると、人波に攫われて何度か溺れかけながらも、 パシャとジーリの露天の先に無事漂着した。
「ふう……」
 ほっとため息を零した少年の姿を認めて、猫がごろごろと喉を鳴らす。 上目遣いに見上げてくる少年と目が合ったところでパシャは尋ねた。
「……この子は坊やの猫かい?」
「うん」
「ちゃあんと掴まえといておくれよ、うちの商品は繊細なんだ」
 自分の悪戯は棚に上げて、パシャは分別臭くしかめ面をして見せた。
「ごめんなさい。気をつけます」
 パシャから猫を受け取って、少年は礼儀正しくぺこりと頭を下げた。 はずみで眼鏡が鼻先にずれる。
 両腕で重いデブ猫をうんしょと抱え直し、上向き加減で手を使わずに眼鏡を戻そうと している仕草が何とも愛らしくて、パシャは軽く腰を屈めて、 少年の眼鏡を所定の位置に戻してやった。
「ありがとう、お姉さん」
「どういたしまして」
「……ここは何のお店なの?」
 ジーリがどっしりと腰を据えている、敷布の上に並べられているのは、 数種類の小冊子と引き出しつきの木箱である。本屋のように見えなくもないが、 本屋にしては酷く品薄で殺風景な眺めだ。
「案内屋だよ」
「あんないやさん?」
 少年は小首を傾げて、不思議そうにパシャの言葉を反芻した。
「わかりやすく言えば、現地情報付きの地図屋だね」
「ふうん」
 好奇心に満ち溢れた少年の目が、まるで看板のように立てかけられている、 奇妙な地図の上で吸い寄せられるようにして止まった。
「これは何処の地図?」
「南海の秘宝の地図さ」
 答えてパシャは、にやりと笑った。
「へえ、すごいねえ! こんなのいっぱい売ってるの?」
 感性の趣くままに、パシャが描いたデタラメな地図を食い入るように見つめて、 少年は眼鏡の奥のつぶらな瞳をきらきらと輝かせた。
「こんなのは、これだけだよ」
 そこにいる相棒が煩いからね、と、片目を瞑りながら小声で付け足して、 パシャはしゃんと背筋を伸ばして自分自身に気合を入れた。
「さあてと、今からちょいと派手に呼び込みをするからね。 もしも暇があるんだったらさ、坊やもそこで見ておいで」


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