緑指の魔女


第一章 「特命」 2


「どうしたヴェン、早く出発しないと夕刻までに、予定の宿場に辿り着けないだろう」
「ああーっ」
 開口一番ランディに急かされて、ヴェンシナは絶望的に天を仰いだ。なんだかんだと言ってはみても、ヴェンシナはランディには逆らえない。 だからこそ、当の本人ではなくアレフキースに、先ほどから泣き言を並べたてていたのだ。
「無粋ですね、ランディ、ヴェンシナは私との別れが名残惜しいのですよ」
 ランディの無作法に苦笑を浮かべながら、アレフキースが横から口を挟んだ。
「一月後には、またすぐ会えるだろうに。さあ、行くぞ、ヴェンシナ」
「うう……はい……」
 ヴェンシナが力なく頷くのを確かめて、ランディはアレフキースに向き直った。
「留守は頼んだからな、アレフキース」
「お任せなさい。いつもより長丁場なので面倒ですが、あなたより上手くやってみせますよ」
 傲然と顎を上げて、アレフキースは尊大に言った。よく似た色の髪をかき上げて、ランディはにやりと笑う。
「それだけらしければ大丈夫だろう」
「国王と王后両陛下への挨拶は済ませておきました。もういつ発たれても大丈夫ですよ」
「そつのないことだ。いたれりつくせりだな」
「私がどれだけ頑張ったところで、あなたが最初からぼろを出してしまうようではどうしようもないですからね。 王宮の中はもちろん、王都を離れるまではくれぐれも油断しないで下さい」
「無論だ。私も存分に休暇を楽しみたいからな」
「……できれば私も、ご一緒したかったのですけれどねえ」
 すっかり意気消沈して、肩を落としているヴェンシナを視界の端に捉えながら、アレフキースは少し残念そうに言った。
「そうはいかない。王太子というのは窮屈なものだ」
 ランディは無造作に掴んで持っていた煌びやかな宝剣を、鞘ごとアレフキースに差し出した。
「私が戻るまで、預かっておいてくれ」
「はい」
 アレフキースは両手で丁重に受け取った。黄金と宝玉で、華麗な細工が施された鞘や柄を見ると、 実用に堪えない装身具のようにも思えるが、抜き身にすると驚くほど鋭利で凄烈な刀身が現れる、名匠の手による国宝級の逸品である。
 その宝剣を胸の前で捧げ持ちながら、アレフキースは複雑な面持ちで、それとランディを交互に見た。
「本当にあなたという方は、もう少し危機感が持てないものですかねえ。ご自分が留守の間に、私がこれを悪用するかもしれないと考えたことはありませんか?」
「思いつきもしなかったが、そうしたいなら別にかまわないぞ。気に入ったのならずっと持っているといい」
 半ば冗談とも思えない口振りでランディは答えた。アレフキースは呆れた。
「例えばの話をしたまでです。私にそんな気概はありませんよ」
 アレフキースが目で合図を送ると、小姓の一人が素早くやってきて、輝く宝剣を彼の腰に吊るした。
「では、アレフキース殿下」
 アレフキースの王太子ぶりを満足げに眺めてから、ランディは芝居がかったような大仰な仕種で優雅にお辞儀をしてみせた。
「私ランディ・ウォルターラントは、これより六年目の一月休暇を頂戴し、ヴェンシナ・ビュセザレイジヤの帰省に伴って、 サテラ【南】州レルギット領のシュレイサ村に赴いて参ります。王太子殿下におかれましては、再びお目にかかる日まで、くれぐれもご壮健であられますように」
「ああ、つつがない旅を祈っているよ、ランディ。ヴェンシナにあまり心配をかけぬように」
「努力してみましょう」
「ヴェンシナ」
「はい」
「君に餞別を贈るのを忘れていた」
「……何ですか? これ?」
 小姓を通じてアレフキースから、小さな袋を渡されたヴェンシナは、外側からくんくんと匂いを嗅いでみた。苦いような香草の香りがした。
「胃腸の強壮薬だ。毎食後に常用しておくといい」
「……お心遣い、感謝致します」
「何だ、ヴェン、腹を壊しているのか?」
「いえっ、今はまだ大丈夫です」
 近い将来胃痛の原因になるであろうランディに、ヴェンシナは首を左右に激しく振ってみせ、アレフキースから賜った胃薬を腰に下げた袋の中に入れた。 そうしてランディにならってお辞儀をし、簡潔に出立を告げた。
「行ってまいります、殿下」
「ああ。土産を楽しみに待っているよ、君たちのいない王宮は、さぞかし平和で退屈だろうからね」
 アレフキースは鷹揚に微笑んだ。ヴェンシナは憮然として、ランディは高らかに笑いながら、王太子に別れを告げ、ようやく旅の途につくことになった。


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