緑指の魔女


第十三章 「相思」 2


 シルヴィナ【精霊の家】の森は、しばらく見ぬ間に、さらに紅葉を深くしていた。
 ランディは前回と同様に、愛馬を森の傍で放して、その紅い、 燃えるような闇の中へと一人分け入った。
 フレイアシュテュアと出逢ったのは、森の一隅に開けた小さな泉の近くだった。 そこへ向かう道のりの、ともすれば方向を見失いそうな鬱蒼とした木々の間に、 時折鮮やかな黄金の木漏れ陽が落ちている。
 金色の輝きはフレイアシュテュアの長い髪を連想させる。 その煌きに導かれるようにして、ランディはフレイアシュテュアとめぐり逢ったのだ。 緑と琥珀の色違いの瞳をした、森の精霊のような娘。女神の名を持ちながら、 魔女と呼ばれる清らかな少女――。


*****


「フレイア!」
 少し迷った末に、ようやく辿り着いた泉の辺で、 ランディは捜し求めたフレイアシュテュアの気配を見つけた。 金色の娘はまた木の陰に隠れていた。自分の名を呼ぶ声に、 泉を訪れたのが丈高い黒髪の騎士であることを知り、 フレイアシュテュアは声を震わせながらその姿を覗かせる。
「ランディ……?」
「!!」
 フレイアシュシュアを視界に捉えたランディは、血相を変えて彼女に近づいた。
 再会後初めての会話は甘いものにならなかった。 フレイアシュテュアがその胸元に、剪定(せんてい)用の頑丈な鋏をしっかりと 握り締めていたからである。
「君はこんなところで! そんなものを持って何をしているのだ!?」
 フレイアシュテュアの上腕を掴んで、ランディは開口一番に怒鳴りつけた。
「……あの……花を……、摘んでいたんです……」
 ランディの思いがけない剣幕に、フレイアシュテュアはどきどきしながら答えた。 心臓が早鐘を打っているのは、決して恋の為だけではない。
「花……?」
「ええ……、フィオフィニア【秋女神の薔薇】、です……」
 呼吸を整えながら、フレイアシュテュアは自由な右手で、 泉の周りに群生している背の低いいばらを指差した。 よく見ればその手には、ヴェンシナの王都土産の手袋を嵌めている。
「フィオフィニア……?」
 早とちりを恥じて、冷静さを取り戻しながら、 ランディはフレイアシュテュアの指先が示す方向に視線を向けた。いばらは以前泉を訪れた時とは、まるで様相が一変していた。 固く結ばれていた黄金の蕾がほころび、その高貴な色の花弁を誇らしげに開いている。
 今を盛りに乱れ咲く大輪の薔薇に、ランディはしばし目を奪われ言葉を失った。
「これがフィオフィニアです。ご覧になるのは初めてですか?」
「いや……、しかし、ここまで見事なものは初めてだ」
 フィオフィニアは野生の薔薇である。それ故に、都会育ちのランディは、 花瓶に活けられた切り花以外をほとんど眼にしたことがない。 野にあってこそ鮮やかに息づく秋女神の薔薇。 フレイアシュテュアの母親と、同じ名前の黄金の薔薇――。
「どうしても、この花が欲しかったんです。教会の花壇に植え替えて、 育てていた株は枯れてしまったから」
「何故?」
「花束と花冠を作るんです。秋の花嫁を飾る花は、これでなくてはいけませんから」
 四季の神々と花に纏わる幸福の伝説を、フレイアシュテュアは信じていた。
 殊にフィオは、秋の女神であると同時に結婚や家庭を守護する愛の女神でもある。 その恩恵を受けることを願って、秋に結ばれる夫婦は数多い。
「……シャレルの為か?」
 ランディは吐息をつくように問いかけた。 フレイアシュテュアはゆるりと頭(かぶり)を振った。
「いいえ、自分の為です。シャレルと約束をしていたのに、 明日の支度の手伝いはできそうにありませんから。 だから、お祝いに、せめてこれだけはと――」
 答えるフレイアシュテュアの手から鋏を取り上げ、それを地に放り投げて、 ランディは娘のなよやかな身体を引き寄せ抱き締めた。 驚きと恐れで、小さく身を震わせるフレイアシュテュアの、 その柔らかな金色の髪に頬を埋める。
「このようなことをヴェンに知られたら、何と言われるかわからないな」
「……ランディ……?」
 ランディはヴェンシナが、自分がフレイアシュテュアを傷つけることのないように、 ずっと懸念して見張っていたことに気付いていた。 フレイアシュテュア自身の為に、彼女を大切にしているヴェンシナの為に、 気持ちを殺し衝動を抑える努力はしてきたつもりだが、抑圧すればするほどに、 想いは濃さを増し、積もりゆくものだ。
「フレイア、もし――」
 愛しい娘をようやく胸に抱いた喜びと、喪失を予感する痛み、 鋭く心を突き抜けてゆく相反する想いに痺れながら、ランディは尋ねた。
「もし、エルアンリのもとに行くことなく、自由になれるとしたら、君はどうしたい?」
「……考えたこともありません。虚しいだけですから」
「では、今、思いつくことを言ってみるがいい。君の望みは何だ?」
「……それは……」
 ランディの腕の中で、フレイアシュテュアは身じろぎした。
 長い睫にけぶる潤んだ目が、物言いたげにランディの黒い瞳を見上げる。 秘めたる熱情の溢れる琥珀の瞳、慎重に心を止めようとする緑の瞳。 せめぎ合う想いにフレイアシュテュアの心も乱れていた。
 この黒髪の青年の傍らで、心を重ね、共に生きてゆくことが叶うならば、 それに勝る幸福はないとフレイアシュテュアは思う。 けれども、他人から魔女と呼ばれる素性の怪しい田舎娘が、 輝かしく眩しいばかりの都の騎士を、どうすれば繋ぎ止めておけるというのだろう?
「……神々の御許で、心安らかに過ごすことができるなら、それ以上のことは望みません」
「神?」
「シュレイサを出て、レルギットからも離れて……、 どこか遠い場所にある、尼僧院に身を寄せたいと思います……」
「……そうか」
 色の異なる瞳を厭い、他人とは違う自分を卑下してきたフレイアシュテュアは、 類稀な美しい娘に生まれついていながら、 己の中に愛される価値を見出すことができない。
 臆病に本心を偽る娘の願いを、ランディは切なく胸に刻んだ。
「覚えておこう、フレイア。だからと言ってはなんだが、私にも君に、 記憶しておいて貰いたいことがある」
「何でしょう?」
 言葉の前に、ランディは行動した。 フレイアシュテュアの白い頬に手を添えて、甘美な果実のような、 紅い唇を奪ったのだ。
「フレイア、私は、君に同情してエルアンリから守りたいと思っているのではないし、 戯れに君を求めたわけでもない。そのことだけは、忘れないで欲しい」
「……はい」
 それは、互いに明確な想いを打ち明けぬままに、二人の恋が成就した瞬間であった。
 ほんのひと時だけの、儚い夢の、ような……。


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