緑指の魔女


第二十四章 「女神」 3


「間に合わなかったの……? あたし……」
 部屋の戸口にようやく辿り着いて、サリエットは床の上にへたりこんだ。 遅れて入ってきたフレイアシュテュアは、そのまま嗚咽を始めるサリエットの髪に触れてから、 後ろ手に扉を閉め、ヴェンシナが横たわる寝台にふらつきながら近づいてゆく。
 目の前を行き過ぎる、ヴェンシナが女神と呼んだ清らかな美貌の娘を、 ランドリューシュはいたたまれない気持ちで眺めやった。 もう少し早く来てくれさえすれば、姿でも声でも温もりでもいい、 ヴェンシナに最期の記憶を刻ませてやることができた筈だ。
 アレフキースはヴェンシナの頭をゆっくりと枕の上に横たえた。 近衛二番隊の騎士として、ヴェンシナは充分すぎる働きで彼に尽くしてくれた。 その身体から温もりが失われてしまう前に、彼の『家族』に返してやらねばならない。
 しなやかな手にそっと目尻を拭われて、アレフキースは初めて自分が泣いていることに 気付いた。
「フレイアシュテュア……」
 緑の瞳を慈愛の色に染め、琥珀の瞳に清廉な輝きを秘めながら、 フレイアシュテュアはアレフキースを静かに見下ろしていた。
「フレイア、助けて!」
 ラグジュリエは涙を払い、縋るようにして、フレイアシュテュアの膝に抱きついた。
「お願い、ヴェンを助けて! お願い!」
 ヴェンシナがそう呼んだように、フレイアシュテュアはラグジュリエにとっても フレイア【生命の女神】であった。叶えられるはずもない無理な願いとわかってはいても、 望まずにはいられなかった。
 フレイアシュテュアは柔らかに微笑んで、ラグジュリエの頭を優しく撫でた。 その透明な笑顔に打たれるようにして、ラグジュリエはフレイアシュテュアの膝から手を 放した。
 フレイアシュテュアは寝台の傍らで膝立ちになると、土気色のヴェンシナの頬を 白い両手で挟み込んだ。
 客室に詰めた一同は、ヴェンシナが大切にしてきた『妹』が、 『兄』に別れを告げるのを見守った。フレイアシュテュアは長い睫を伏せて、 永遠の眠りにつこうとしているヴェンシナの唇に口付けた。
「……駄目よ、ヴェン、生きて……」
 フレイアシュテュアはヴェンシナに語りかけるように囁くと、 緩やかに手を伸べて彼の傷の辺りに触れた。そうしながらもう一度、 先ほどよりも長く、深く、願いと思いを込めて唇を重ねる――。
 見る者の時を止めるような神聖な接吻を終えると、フレイアシュテュアは おもむろに身を起こし、気だるそうに腰を床に落としてくたりと寝台にもたれかかった。
 その、金色の頭の傍で。
 ぴくり、と、ヴェンシナの、指先が動いた。
 シャレルは恐る恐る指を伸ばして、弟の手を握り締めた。 弱々しい反応であるが、握り返してくる確かな手応えがある。
「ヴェン……?」
 呼びかけると、微かに睫が震えた気がした。その顔は青ざめてはいるが、 もはや死人のもののようには見えない。
「フレイア……? 君は、何を……?」
 アレフキースは怪訝そうに眉を寄せて、フレイアシュテュアに尋ねた。
「……内緒です」
 フレイアシュテュアは寝台の縁(へり)に腕をかけて身体を預けたまま、 血の気の失せた青白い顔をアレフキースの方に向けた。
「たとえあなたでも……、お答えすることはできません。 秘密にしておく約束ですから、ヴェンと、私、だけの……」
 その身体がぐらりと傾いだ。抱きとめてアレフキースは愕然とする。 力なく気を失ったフレイアシュテュアの肉体は、まるで氷のように冷たかった。
「フレイア!!」
「まさか――そんな……だけど――」
 ヴェンシナの心音を聴き、呼吸を確認したキーファーは、 どうしてもそれを確かめてみたい誘惑にかられた。震える手で鋏を取り出し、 毛布を剥ぎヴェンシナの寝間着をはだけて、胴に巻かれた包帯を一気に切り裂く。
「ああ――何てことだろう!!」


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