緑指の魔女


第二十五章 「目覚」 1


 どれだけ長い時間を、そうして眠っていたのだろう?
 寝台はほどよく暖まっており、ようやく覚めかけた目を開かずにいると、 意識はまたうとうとと幸福なまどろみの中に引き戻されてゆく。 アレフキースが自堕落にとろりとした眠りを貪っていると、腕の中に抱えている、 たおやかな肉体が僅かに身動ぎをした。
 自分のものではない柔らかな質感の髪に、首筋や裸の胸をくすぐられて、 アレフキースははっきりとした知覚もないままに、そこにある愛おしいものを 両手で抱きすくめた。優しい温もりが素肌を火照らせ、 しなやかな弾力が心地よく彼の胸を押し返す。
「きゃあっ」
 驚き怯えるような小さな悲鳴がアレフキースの耳を打った。緩やかに覚醒すると、 寝乱れた金の髪で顔を隠すようにしながら、先に目覚めたフレイアシュテュアが、 隣にいる彼に狼狽して身体を強張らせていた。
「あの……私……」
 フレイアシュテュアの肉体の緊張が、彼女の細い声をわななかせる。 娘の早い鼓動を感じ、薔薇色に色付く柔肌の熱さを受け止めながら、 アレフキースは深く吐息をついた。
「あの……どうしてあなたが……?」
 状況がうまく飲み込めず、フレイアシュテュアは動転していた。 ヴェンシナとの約束を破って、緑の指で彼の傷を癒し、 自らの生命の息吹を分け与えたことまでは覚えている。
 フレイアシュテュアは幸福な夢の中で、恋人の温かな腕に身も心も委ねていたが、 現実にアレフキースが、永遠に繋がる冷たい眠りから、救い出してくれたのだとは思いも よらなかった。
 同じ寝台にいるだけでも心が落ち着かないのに、 フレイアシュテュアは知らぬ間に肌着姿にされており、おまけに密着している アレフキースの身体は半裸である。初心なフレイアシュテュアは身の置き場にも 目のやり場にも困り果てた。
 アレフキースはそんなフレイアシュテュアの髪を掻き分けると、 羞恥に染まる娘の顔を間近から覗き込んだ。
「戻ってきてくれたのだな、フレイア」
 フレイアシュテュアの疑問には答えずに、アレフキースは彼女の淡い金の髪を梳きながら、 黒い瞳に万感の思いを込めてそう言った。
「……はい」
 フレイアシュテュアは色違いの潤む瞳で彼の眼差しを受け止め、 どきどきしながら小さく頷いた。その可憐な風情が堪らなく愛おしくて、 アレフキースは彼女の髪を指に絡めたまま、覆いかぶさるように口付けた。 軽く触れるだけに止めておくつもりであったが、震える唇の甘美な誘惑に負けて、 歯止めが効かなくなる。奪うような激しさで求めてくるアレフキースに、 フレイアシュテュアは戸惑い、さらに身体を硬くした。
「あ、あの……」
 情熱的なキスの後にきつく抱き締められて、フレイアシュテュアはまた困惑の声を上げた。 決して不快なわけではなく、恋しい男を狂わせていることに軽いめまいと 悦びすら感じもするが、その先にある行為が彼女にはまだ怖い。
「お目覚めですか? アレフキース様」
 ノックの音が響き、部屋の外からエリオールの抑揚の無い声がかけられた。
「お取り込み中、失礼かとは存知ますが、副隊長からの厳命です。 お二人共にお目覚めの気配が感じられたら、殿下にはすぐにお声をかけてお召し変えを して頂くようおおせつかっています。入浴の準備を急がせますので、 簡単に身支度を済まされましたら部屋から出てきて下さいますか?」
「……わかった」
 エリオールに答え、理性を失くしかけていたことに自己嫌悪を覚えながらも、 アレフキースは自分の衝動をランドリューシュに見透かされていることに口惜しさを 感じた。
 アレフキースが身を起こしてフレイアシュテュアを見ると、 娘は恥ずかしそうに頭の先までキルトの中に潜り込んだ。
 アレフキースは気まずい思いを抱えながら寝台を下り、 床に脱ぎ捨てていた衣服を身に着けた。
「ラギィかシャレルに君のことを頼んでおく。ゆっくり休んでいるといい、フレイア」
「……はい」
 フレイアシュテュアはキルトを被ったまま、消え入るように答えた。 アレフキースもまた、肉欲を持つ生身の男であることを思い知らされて、 フレイアシュテュアの心臓は跳ね上がっていた。
 かちゃりと扉を開き、そしてまたパタンと閉める音が響いて、 フレイアシュテュアはアレフキースが自分の部屋から出て行ったことを知る。
 王太子アレフキース。
 なんと重い名だろうとフレイアシュテュアは思う。魔女と呼ばれ疎まれてきた、 孤児の娘が恋に落ちるのに、これほど遠く切ない相手がいるだろうか?
 肌や唇に残された、アレフキースの熱情の名残にうろたえながら、 フレイアシュテュアは『ランディ』と決別し、恋人が王太子である現実を受け止めた。 手痛い失恋の感傷と共に。


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