緑指の魔女


番外編 「菫咲く頃」 3


 ふわふわと雲を踏むような足取りで、フレイアシュテュアはエトワ州城の回廊を行く。腕と共に心を預けている長身の青年は、 フレイアシュテュアの歩調に合わせてゆったりと足を運んでいた。
 最初に仕種で示された、口止めはいつまで有効なのだろう? 見覚えのある護衛騎士と並んで二人の後に従いながら、 ヴェンシナはずっと物言いたげに青年を見つめている。けれどもフレイアシュテュアは、会話が無くともまるで苦には感じなかった。 まさか今日、この場所で、彼に逢えるとは思ってもみなかった。今はもうそれだけで嬉しくて、胸がいっぱいになっている。


*****


 連れて行かれた先は『フレイアシュテュアの客間』。導かれるまま長椅子に腰掛けて、自分専用の応接室だというその見事な 部屋を見渡して、フレイアシュテュアは呆然とする。手際よくお茶の支度を調えて小間使いが立ち去ると、青年は長椅子に寛ぎながら 、壁際にひっそりと控えている護衛騎士を振り返った。
「エリオール」
「はい」
「行ったか?」
「はい、問題ないでしょう」
 人払いを確かめてエリオールが頷くと、青年はフレイアシュテュアに向き直り、長椅子の脇に佇むヴェンシナの顔も流し見ながら、 精悍な頬を崩して晴れやかに笑った。
「二人とも久しぶりだな。ずっと逢いたかった、フレイア。やはり童顔のままだな、ヴェン」
「ええ……!」
「一体あなたはこちらでっ、何をしていらっしゃるんですかーっ!?」
 それまでよほど、我慢に我慢を重ねていたのだろう。瞳に熱を溢れさせながらも、相槌を打つのが精一杯のフレイアシュテュアの 言に被さるようにして、ヴェンシナの声が部屋中に轟いた。
「鈍いやつだな。ランドリューシュのふりに決まっているだろう」
 青年は長椅子の背にもたれながら悠然と答える。相も変わらぬそのふてぶてしさを、喜ぶべきか嘆くべきなのか、 ヴェンシナは複雑な心境だ。
「わかっています! だからこそお伺いしているんですっ! 本物のランディ様は、今どちらにいらっしゃるんですか?  重々懲りていらっしゃるでしょうに、よくもまた入れ替わりをご承知なさいましたねっ!?」
「ランドリューシュなら、私に代わってマイナールの離宮にいる。半日だけの約束ならば、王太子のままで仰々しく、 州城に押しかけてこられるよりはましだと言われた」
 青年の正体は言わずもがな、ランドリューシュの名を騙ったアレフキースである。彼本人のみならず、本来は近衛騎士である エリオールを、エトワ州城の護衛官に変装させているご丁寧さだ。
「あなたのわがままに、ランディ様ばかりでなくて、公爵様まで抱き込んでしまわれるなんて……」
「大いに乗り気で引き受けてくれたぞ。サリフォール公も好きだからな、こういうお遊びは」
 アレフキースの返答に、ヴェンシナはどっかりと疲労が増すのを感じた。今はもう辞職してしまったが、ランドリューシュが 平民の名で近衛二番隊の副隊長を勤めていた頃、彼の母親であるサリフォール女公爵は、嫡男の不在を巧妙に隠していた。 しれっとした顔つきで、王太子の悪戯に荷担するくらいはお手の物というわけだ。
「長らくお会いしていなかったので、すっかり忘れていましたけど、あの方もそういう御方でしたよね……。 ランディ様もサリフォール女公爵様も、つくづく殿下とご一緒のお血筋なんだって思います」
 そんな彼らが、フレイアシュテュアの新しい『家族』となったのだ。心強いような先が思い遣られるような……。 自らの手から離れゆく純真な『妹』に、悪影響が及ばぬことを、ヴェンシナは切に祈らずにおれない。
「と、いうことなのでな、フレイア」
「はい?」
「今日だけは私を、殿下ではなくお兄様と呼ぶように」
「お兄様……。ひょっとして楽しんでいらっしゃるんですか?」
 大真面目を装ったアレフキースの戯言(たわごと)に、フレイアシュテュアの緊張もほぐれていた。言葉を紡ぐことを忘れていた 唇に、柔らかな微笑みが舞い降りる。
「そう、楽しい。君とこうして戯れられる日を、私は指折り待ち詫びていたのだから」
 その表情に見惚れながらアレフキースは、甘く色づいたフレイアシュテュアの頬に手を伸ばした。 ヴェンシナは軽く咳払いをしつつ、長椅子の背後から恋人たちの間に割って入る。
「ええと、一言よろしいですか?」
「何だ?」
「殿下は今、ランディ様としてこちらにいらっしゃるわけですよね。ですから周囲の方々に、誤解を与えるような振る舞いを なさっちゃ駄目ですよ」
 ランドリューシュを名乗っているならば、フレイアシュテュアに気安く触れてくれるなと、ヴェンシナは小舅のように―― 実際そのようなものだが――目くじらを立てているのだ。アレフキースはいささか不満げに手を引っ込めた。
「わかっている。人目を忍べと言うのだろう?」
「何だか微妙に引っかかるおっしゃりようですが、お気に留めていらっしゃるなら結構です。本当に自粛して下さいね」
 それは確かに気をつけなければならないことかもしれないが、アレフキースがこうもしっかりと念を押されているのを聞いていると 、フレイアシュテュアにはどうにも気恥ずかしい。
「それにしても、どんな口実をつけてマイナールの離宮にいらしてたんですか? まさかまた捻挫の療養なんてことはありませんよね?」
 王太子が王都から離れる為には、それなりの理由が必要となるものだ。ヴェンシナにちくりと皮肉られてアレフキースは苦笑した。
「失礼なやつだな。私が今、マイナールにいるのは公用なのだぞ。王太子はメリーナへ赴く旅の途中に、マイナールの離宮に立ち寄って、 休養をとっていることになっているのだ」
「メリーナ……? それでは、ヌネイルの王宮を訪問されるんですか?」
「そうだ」
「あちらには、駐在大使がいらっしゃるのに、殿下ご自身がわざわざですか?」
 ヴェンシナは訝しげな顔つきで確認をした。ヌネイルはデレスの西の隣国であり、メリーナはその王都である。 精巧な時計や自鳴琴(じめいきん)を産する、技術の粋と遊び心を集めた『撥条(ぜんまい)仕掛けの都』。
「心配するな。決して国交が悪化しているわけではない。父上の名代として同盟協議会への出席だ。デレスは来期の盟主の座を、 ヌネイルから引き継ぐことになっているからな。王太子の私が出向くのは、いわば同盟諸国に対しての箔付けだ」
 アレフキースの説明に、ヴェンシナはぽかんと目と口を丸くした。
「どうした?」
「いえっ、存外に固いお話だったので驚いただけです。僕はてっきり、ヌネイルの王女殿下とのご縁談を、 お断りに向かわれるものだとばかり……」
「まあ、それも、付随した用向きの一つではある」
 アレフキースは歯切れ悪くその話題を流そうとした。勘鋭く図星をさしてしまったことを、ヴェンシナもすぐに後悔する。
「そのようなことをなさって、大丈夫なのですか?」
 少なからず動揺しながら、フレイアシュテュアが遠慮がちに口を挟んだ。由緒ある他国の王女と、己の実父すら知り得ぬ フレイアシュテュアとでは比べるべくもない。どちらがよりアレフキースの妃として相応しいかは明白だ。
「ああ。ヌネイル王家との縁談は、デレスの王族に必ず持ち上がる社交辞令のようなものだからな。別段君が気に病むようなこと ではないぞ」
 フレイアシュテュアの不安を拭うようにして、アレフキースは微笑む。
「それでも、殿下ご本人からお断りになって、角が立つようなことはないのですか?」
 高貴な人々の婚約事情など、フレイアシュテュアに知る由もない。けれど、ささいな感情の拗(こじ)れであっても、 国と国との問題にまでなりはしないかと――。懸念するフレイアシュテュアに、アレフキースは首を横に振った。
「実務的な折衝は大使が行なうことになるだろう。そもそもヌネイルの王女とは年が離れ過ぎているのでな。決して私の恣意だけで 退けるわけではない」
「……はい」
 それ以上の質疑はせずに、フレイアシュテュアはそっと頷いた。フレイアシュテュアにできるのは、アレフキースを信じて疑わぬ こと。それだけだ。二人の交際はまだ公にされておらず、気弱に身を引くことも考えてしまうが、それを許してくれる恋人である ならば、フレイアシュテュアは今頃、公爵令嬢ではなく尼僧になっていただろう。
「気分を換えに外へ出ないか? サリフォール公からは、ぜひとも君に庭を見せておいて欲しいと頼まれているのだ」
 気詰まりな雰囲気を軽くするように、アレフキースは提案した。フレイアシュテュアは不思議そうに尋ねる。
「お庭を、ですか? 何かあるのですか?」
「それはここでは言えないな。だが、行ってみたくなっただろう?」
「ええ」
 意味深に誘いをかけて、アレフキースは先に席を立ち、フレイアシュテュアの手を引き上げた。二人の後からついて行こうとした ヴェンシナは、エリオールに阻まれる。
「エリー?」
「我々はこの場で待機を」
「……うん」
 王太子の身柄を預かるとあって、サリフォール女公爵は、州城の警備に万全を期していることだろう。 無粋な邪魔立てなどせずに、しばしの間、片目を瞑っていろということか。
 そう理解しながらも、とっさに動くことのできないヴェンシナを尻目に、エリオールはきびきびと主君に先回りして露台へと 続く扉を開いた。
 戸口の前で、フレイアシュテュアがヴェンシナを振り返る。つられて眼差しを廻らせたアレフキースと目が合ったところで、 ヴェンシナは慌てて一礼をした。
 エリオールは何も言わないが、フレイアシュテュアを案じるあまりに、自分は傍目に滑稽にも、野暮にも映っているかもしれない。 ヴェンシナの心の内に、自嘲と共に寂しさがよぎった。もう今までと、同じ距離でいられる筈もないのに――。


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