緑指の魔女


番外編 「菫咲く頃」 4


 城の三階ともなればずいぶんな高さになる。まだ雪雲に包まれているアズナディオス山脈の、青白い山肌を吹き下ろす風は強くて、 見晴らしの良い露台の端に立っているのが、慣れないフレイアシュテュアには少し怖い。ぎゅうと彼女がしがみついてくるのを 楽しむようにしてから、アレフキースはフレイアシュテュアを引き寄せた。ようやく再会できた恋人と、互いの熱を匂いを、 柔らかさを逞しさを確かめ合う至福。螺旋階段の陰に攫われて、フレイアシュテュアはアレフキースにしばし呼吸を奪われる。
 アレフキースにとってフレイアシュテュアは、愛しく想うからこそ、機が熟すまで隠しておかねばならない秘密の恋人だ。 けれども、自分を見上げ、艶やかに潤む二色の瞳。喜びと恥じらいに染まる薔薇色の肌を前にして、分別のある『お兄様』でいら れる筈もない。絡め合った指先を分かちがたく、二人寄り添いながら階段を降りた。


*****


 森や野原の大自然に見慣れたフレイアシュテュアの目に、人工的な庭園の洗練美は新鮮だ。折からの風に可憐に揺れる紫菫、 黄菫、三色菫。すっくりと胸を張るようにして誇らしげに花開いた白や黄色の水仙が、清々しく香りながらフレイアシュテュアを 出迎える。
「なんて、綺麗……」
 早咲きの花が飾る花壇の見事さに、フレイアシュテュアは素直に感嘆した。見る者の目を意識した絶妙の配列。 整然と並んだ粒ぞろいの花の大きさ。花弁の清雅さを引き締める緑葉の瑞々しさに、庭師の腕前が伺える。
「土もとても肥えていそうですし、もう少し暖かくなったら、今よりもずっと美しいお庭になるのでしょうね」
「向こうに見える生け垣のところまで、君の庭だそうだ、フレイア」
 アレフキースが指さす先を眺めてから、フレイアシュテュアはおもむろに首を傾げた。
「私の、お庭?」
「ああ、君の好きな花で満たして、世話をしてやるといい。君の父親になるのはこの城の庭師長だ。迎える娘が園芸を好むと知って、 手ずから土をならして準備をしたそうだ」
「……そう、なん、ですか……?」
 まだ見ぬ養父からの思いがけない贈り物に、フレイアシュテュアの胸の内を驚きが行き過ぎた。そうしてじわりと満ちてゆくもの は、泣きたくなるほどの歓喜と、いくばくかの戸惑いと。
「お父様というのは、一体どのような方なのでしょう? 私、ちゃんと仲良くなれるでしょうか?」
 フレイアシュテュアはこの時まで、父親の情というものを感じたことがなかった。シュレイサ村の村長は、公爵家と縁続きになる 私利私欲から、フレイアシュテュアの認知に同意した名目上の『実父』であり、シュレイサ村教会の老牧師は父と慕うには高齢だった。
「伯父上は気持ちのよい方だぞ。怖がることはない。お会いするのを楽しみにしているといい」
「はい」
 州城の両親はそれぞれのやり方で、フレイアシュテュアを受け入れようとする心意気を示してくれた。ならば自分もまた、 その厚意に誠実に応えたい。故郷の『家族』を忘れることなどできはしないが、新しい『家族』との関係を、大切に築いてゆきたい とフレイアシュテュアは切に思った。

「殿下」
 フレイアシュテュアは繋いだ指先に力を込めた。すぐにそれは、より強い力で包み込むように握り返されて。
「どうした?」
 問いかけるアレフキースの声音はこの上なく優しい。自分はこの人に、本当に大事にされているのだと、 フレイアシュテュアは今日何度目になるのかもわからない幸福感を噛みしめる。
「ありがとうございます」
 精一杯に心を込めて告げてはみても、本当はそんな、言葉だけでは足りない。けれどもアレフキースは嬉しげに笑んだ。
「それは何の礼だろう?」
「今日、逢いに来て下さって」
 ランドリューシュとの入れ替わりをヴェンシナは嘆いていたが、裏を返せば、そうでもしなければこの逢瀬は叶わなかったと いうことだろう。アレフキースは自由奔放なようでいて、その実、多くのものに縛られた王太子であることに、フレイアシュテュア はもう、気付かされている。
「逢いに来たのは私のわがままだぞ」
「理由なんていいのです。殿下のお元気そうなお顔を見られたこと、こうして今、お傍にいられることが、とてもとても嬉しいんです」
「フレイア」
 飾ることのない言葉で、せつせつと訴えられては、アレフキースはフレイアシュテュアを抱き締めずにはいられない。
「それから……。私の為に、国王陛下と約束なさったことがあるのでしょう?」
 アレフキースの胸に頬を寄せながら、フレイアシュテュアは囁くように聞いた。俄に息を詰める気配を感じて、 そっと眼差しを上げる。
「……何故君が、父上との約定のことを知っているのだ?」
 意表をつかれた様子でアレフキースは尋ねた。物柔らかに問い質そうとするフレイアシュテュアを映しながら、 黒い瞳が困惑していた。
「ランドリューシュ様から教えて頂きました」
「ランドリューシュには確かに話したが。いつの間に?」
 アレフキースはわけがわからないといった風に眉を顰めた。フレイアシュテュアは事情を説明する。
「お伺いになっていませんか? 私、ランドリューシュ様と文通をしていたんですよ。村の教会育ちの私が、公爵家に入るのは 大変だろうからと、ずいぶんと気にかけて下さっていて」
「あいつは……。そつがないというか。油断も隙もないというか……」
 至極協力的なランドリューシュを頼もしく思いはするが、自分の知らないところでフレイアシュテュアと親しくされるのは 正直面白くもない。つい妬いてしまうアレフキースである。
「殿下は今、あまりお休みもとられずに、国王陛下の補佐をなさっているのだそうですね?」
「休みが無いというのは大げさだが、あの休暇の後から本腰を入れて、国政を手伝っているのは本当だ。君を妃にしたいならば、 その為に則(のり)を覆しても、臣下に背かれぬ器を示してみせよと――。父上から出された、その条件を呑んだものでな」
 デレスでは未だかつて、民間出身の王后あるいは王太子妃が立てられた例はない。常には一粒種のアレフキースに甘い国王だが、 フレイアシュテュアの件に関しては、渋面を作って待ったをかけたのだ。
「たくさんのことを、して頂いてばかりですね。私は殿下に、一体何をして差し上げられるのでしょう?」
「言葉に訛りが、なくなっているな」
 淡く紅を刷いた、フレイアシュテュアの唇を親指の先でなぞりながら、アレフキースは満足げに言った。
「それに身のこなしも、村にいた頃とは見違えるほど洗練されている。サリフォール公からは、君の教育係として相当煩型の侍女を つけたと聞いた。私の為に君も、日々努力を重ねてくれているのだろう?」
「教えられた通りにできないことも多くて、毎日叱られてばかりです」
 女公爵の腹心の侍女は、篤実で信の置ける人であったが、礼儀作法や話し方の指導には、妥協が無く厳しかった。 できうる限りのことはしてきたと思うが、まるで至らない自分自身をフレイアシュテュアは痛感している。
「ささいな失敗を数え上げて、気に病むことはないぞ。サリフォール公は、規範とするに不足のない最高の貴婦人だ。 君が惑うことのないように導いてくれるだろう」
「はい」
 数ヶ月に渡る特訓の成果を、アレフキースに褒められたことがフレイアシュテュアには嬉しかった。女公爵の養女という身分を 与えられたところで、自らの出生の不確かさは消えない。公式な場で、アレフキースの隣を占める為には、この先まだ多くのものを 身につけてゆかねばならないだろう。
「お母様は、お美しくて素敵な方だと思いました。早くあの方のようになれるように、一生懸命頑張ってみますね」
「ああ。だが、無理はせぬようにな」
「ええ、殿下も。私だけでなく、ヴェンも心配するでしょうから、無茶はやめて下さいね」

「アレフキース様」
 会話の切れ目を見計らったように声がかかった。びくりとするフレイアシュテュアを両腕の中に包んだまま、アレフキースが 振り返ると、いつからそこにいたものか、エリオールが膝を折っていた。
「何だ?」
「刻限です」
 エリオールの口上は簡潔である。アレフキースも端的に返答した。
「すぐに行く。控えていてくれ」
「はい」
 エリオールは無理強いせず、従順に引き下がった。たまさかにしか逢えない恋人たちには、今ひとたびの別離を惜しむ儀式が必要だ。
「またお別れ、なのですね……」
「メリーナからの帰りに、またここへ寄ろう」
 気を落としたフレイアシュテュアの、柔らかな髪に指を滑らせながら、アレフキースは約束をした。
「ええ。その日を楽しみにお待ちしています。どうかお気をつけて、行っていらして下さいね」
「ああ」
 悲しげに俯こうとする小さな顎を捉えて、アレフキースはフレイアシュテュアを上向かせた。女公爵の膝元で、 フレイアシュテュアは日一日と磨き上げられてゆくことだろう。逢えない時間がどれほど彼女を美しくするだろうか?  今しか見ることのできない恋人の顔を、記憶に刻んでおきたかった。
「君がここでの生活に慣れ、王都の邸へと居を移すことができれば、繁く逢うことも叶うだろう。フレイア、 君がサリフォール家の姫として、王宮へ上ってくれる日を心待ちにしている」
「はい」
 伏せた睫を震わすフレイアシュテュアに、アレフキースは二度、三度とついばむような口づけを落としてゆく。 フレイアシュテュアが思わず漏らした、あえかな吐息はアレフキースの欲を誘って、今度は深く求められた。 想いを返すようにして、フレイアシュテュアが躊躇いながらも応えると、それは次第に、遠く離れていた時間を埋め、 また別れゆく寂しさを打ち消すかの如く熱のこもったものになり――。

 エリオールは、まだ淡く雪が残る庭園の片隅で、しばし主君に待ちぼうけを食わされることとなる。


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