緑指の魔女


番外編 「菫咲く頃」 5


 離宮に戻るアレフキースとエリオールを、フレイアシュテュアはヴェンシナと庭で見送った。別れ際には微笑みを見せていた が、残されたフレイアシュテュアの横顔は寂しげで、けれど、自分もまた、同じような表情をしているのかもしれないと、 ヴェンシナはふと思う。
「ヴェンは一緒に行かなくてよかったの?」
「うん。殿下がメリーナから帰国なさって、この州城にお立ち寄りになるまでは、フレイアの護衛と話し相手が僕の仕事なんだって」
「そうなの。嬉しいわ」
 新しい生活の始まりを、引き続きヴェンシナが支えてくれるなら、フレイアシュテュアにとってこれほど心強いことはない。 今はアレフキースよりもフレイアシュテュアの方が気がかりであったので、ヴェンシナも主君の気遣いをありがたく感じていた。
 落日が、フレイアシュテュアの淡い金髪を煌めかせる。柔らかな金色の光彩が、神の祝福のようにフレイアシュテュアを取り巻いて、 胸が締め付けられるほどに綺麗だった。


*****


「フレイア、お願いがあるんだ」
 もといた客間に戻ると、ヴェンシナは意を決してフレイアシュテュアを振り返った。
「どうしたの? 改まって」
 いつになく真剣なヴェンシナに、フレイアシュテュアは戸惑う。生真面目な榛色の瞳が、真っ直ぐに彼女の目を捉えていた。
「改まって、言わなきゃならないことなんだ。これから僕が言うことをよく聞いて」
「……ええ」
 ヴェンシナは一体、何を告げようとしているのだろう? フレイアシュテュアは不安を覚えながら、胸の前で両手を握り合わせた。
 立ち尽くすフレイアシュテュアに向かい合って、ヴェンシナは深呼吸を一つした。フレイアシュテュアがアレフキースのものになって から、ヴェンシナはずっと思い煩ってきた。いつか訪れるこの時のことを――。
「ちゃんとけじめをつけなきゃいけないから、僕はもう君のことを、君ともフレイアとも呼べなくなる。もしも君が泣いていたって、 涙を拭いてあげることもできなくなる。こうして二人きりで話すことだって、これが最後になるかもしれない。だけどね、フレイア、 どうか忘れないで」
 ヴェンシナは切なく微笑みながら、フレイアシュテュアの髪を撫でた。誰よりも近しく育った『妹』を、宥めるために、 慰めるために、労るために……。与うる限りの慈しみを込めて、幾度となく繰り返してきた、もう二度とこの先は、許されることの ない愛撫。
「これから何があってもね、僕はフレイアの味方だから。君のことを変わらず、大事に想い続けているから。僕の剣と忠誠は、 君がくれた、この命ある限り……、殿下とフレイアのものだよ」
「ヴェン……」
 名残惜しく、フレイアシュテュアに触れていたがる手を、ヴェンシナは強く握り締めた。同時に固く瞳を閉じて、ゆっくりと視線を戻す。 もはや彼の目の前にいるのは、幼少の頃から愛おしんできた『妹』ではない。いずれ王太子妃候補に上げられることになる、 サリフォール公爵令嬢。遠く身分の隔たれた名家の姫なのだ。
「ありがとう……。忘れ、ないわ……」
 ヴェンシナの決意と真心はフレイアシュテュアの胸を打った。想いはなお近くにありながら、一線を引かざるをえないのだとしても、 ヴェンシナの『妹』であったことはフレイアシュテュアの誇りだ。大好きな『兄』との悲しい別れに、フレイアシュテュアの視界は 揺らいだ。
「ああ、ええと……」
 固く誓いを立てたところでありながら、ヴェンシナはついおろおろとしてしまう。彼の心の葛藤を断ち切るようにして、 静かな部屋にノックの音が響いた。
「お嬢様、失礼をしてよろしいでしょうか?」
 続いて外からかけられたのは、すっかりと聞き馴染んだ侍女の声だ。アレフキースが去ったことを受けて、女公爵の使いでやって来たのだろう。
「どうしよう……、落ち着いた?」
「ええ。もう、平気よ……」
「本当に?」
 強がりでないかを確かめようと、ヴェンシナは案じるようにフレイアシュテュアの面を覗き込む。それは先ほどまでの困った顔と並んで、 彼がよくする表情だった。
「大丈夫、ちゃんと、笑えるわ……。私きっと、強くなるから。ヴェンにいつまでもね、心配ばかりかけられないもの」
 転げ落ちた一粒の涙を、フレイアシュテュアは指先で拭った。奥床しくも、儚くはない円かな微笑みを浮かべて。
 ここへきてようやく、ヴェンシナは悟った。フレイアシュテュアも自らの意志で変わろうとしているのだと。 長く辛い冬の時を、堪え忍んだ菫は雪を割り、今ようやくに蕾を綻ばせて、密やかに、春の訪れを告げたのだ。
「わかりました。それではお嬢様、長椅子に掛けてお待ち下さいますか」
「ええ」
 淑やかに答えるフレイアシュテュアに、ヴェンシナは畏まって一礼すると、感傷を拭い去って侍女が待つ扉を開いた。 目覚め始めた彼の女神を、流転する未来へと送り出す為に。


- Fin -


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