快適温度


快適温度 1


 泥のように沈んだ意識を揺すり起こすのは、無個性に繰り返される駅名のアナウンス。
 重い瞼を上げると、座席横のドアがぷしゅっと開いて、生暖かい外気にひょろっと頬を撫でられた。
 どんだけ爆睡しとっても、目的の駅に着いたらちゃんと目が覚める。自己管理ができているんだか、それとも小心者なだけなんか、ようわからんけど俺の体内目覚まし時計はなかなか優秀やと思う。
 もう午後七時過ぎ、いう時間やのに、暮れなずむ空は薄ぼんやりと明るい。今日は一体どこまでが昼で、どこからが夜になるんやろうな。
 通勤至便。駅徒歩十一分の好立地――。不動産屋の謳い文句は大嘘や。実際に歩いたら、駅から家までたっぷり十五分はかかる。 夕立の雨が行き過ぎた街はじっとりと暑うて、きっちりスーツなんか着てられへん。 脱いだ上着を脇に抱えて、襟元を締め付けているネクタイを緩めて、だらだらと噴き出す汗を拭いながら、それでも弾む足取りで、俺は家路を急いでいる。
 どっちかいうたら面倒臭がりの俺が、駅前五分の実家を離れて、わざわざ交通の利が悪い所に部屋を借りたんには、それなりの訳ゆうもんがある。
 きっかけは、新営業所の立ち上げに伴う人事異動で、先々月から今の職場に転勤になったこと。
 営業所開設の初期メンバーに、選ばれるんは悪いことやない。それだけ会社に期待されてるんや思たら頑張り甲斐はある。 けど、なんぼ家から最寄り駅までめっちゃ近いゆうたかて、通勤時間が阿呆みたいに長なった上に、途中で二回も乗り換えせなあかんのはほんまにしんどいわ――。
 そう言うて、ぶつくさぼやいとった俺の背中を、おっきい理由がちっちゃい手でどんと押したんや。
 俺の新居は、いわゆる閑静な住宅街の中にある。築二十年位経つ、ちょっと古めかしいマンションやけど、それだけは最新式のインターフォンを鳴らしたら、日向子が笑って出迎えてくれた。
「おかえりぃ」
「ただいま」
 疲れも吹き飛ぶ一瞬、いうやつやな。
 昨日までの一ヶ月、一人寂しく暮らしとった部屋に、今日からは日向子がおる。これから先の朝と夜とを、日向子と一緒に過ごしてゆける。そう考えたら、じんわりと胸の奥から込み上げてくるもんがある。
「……何玄関でぼーっとしとって? はようち(家)入りぃ」
 日向子の口から零れた、第二声がそれやった。そう言われたことよりも、そう見える自分の顔になんとなくしょんぼりやで。
「ぼーっとて、ひなの初めての『おかえり』に、感動のあまりじーんと浸っとったんや」
「何言うとー、もう」
 軽く俺の腕をはたいてから、日向子は「はい」と手を伸ばして、スーツの上着を受け取ってくれる。新婚さんみたいでちょっと照れ臭い。
 俺の上着を、寝室のハンガーに吊してくれてからキッチンへ。空きっ腹を刺激する、和風出汁の匂いが漂う二DKの家の中を、オレンジ色のスリッパをぱたぱたといわせながら、日向子は楽しげに動き回る。
 ジャージに着替えた俺は、クーラーの温度を下げて居間の畳に転がった。涼風がちょうど下りてくる、家中で一番冷える場所が俺のお気に入りの定位置や。
「あー、涼しなー……」
「……冷凍マグロみたいやで、ぽんちゃん」
「何で冷凍や?」
 マグロにはあえて突っ込まん。トド言われんかっただけましやて思っとこ。
 俺の名前は田井奔太朗。そやから昔は『ほんちゃん』やった記憶がある。
 けど、出会った頃に比べると、ちょっと、ゆうか、かなり……やな、太ってしもたばっかりに、いつのまにか日向子には、『ぽんちゃん』ゆうて呼ばれるようになっとった。
「何でて、この部屋めっちゃさぶ(寒)なっとーねんけど。クーラー何度にしとって?」
 聞きながら日向子は、冷たい麦茶を注いだグラスを差し出してくれる。そんな言うほど寒いか?
「何度やったかな? なんしかちょうど適温やで」
 座布団の上に起き上がり、グラスを受け取って俺は答える。クーラーの設定温度を確かめて、日向子はぶるぶるっと、ノースリーブの細い腕をさすった。
「ぽんちゃんぽんちゃん、二十三度になっとーでっ! こんなとこおったらさぶいぼ(鳥肌)出るー」
「ほんまか。けど、帰ってきたとこで暑いねんわ。汗が引いたら上げるから、もうちょっとこのままでおさせてくれ」
「しゃーないねえ……」
 諦めたように日向子は言って、引っ越し業者が運び込んだまんまの衣装ケースから、長袖のパーカーを探してきて羽織った。
 俺が麦茶を飲んで休んでいる間に、日向子は机を拭いて食卓を整えた。ほんで仕上げに、座卓の中央に置いた鍋敷きの上に、大きな土鍋をでんと据える。
 ……土鍋? 今の季節に何で土鍋なんや?
「ひな、今日のおかずは一体何や?」
「おでん」
 日向子が蓋を開けたら、もわりと、湯気。見ているだけで、じわりと、また汗が。
 コンロから下ろされたばっかりの土鍋の中で、大根や卵やちくわや厚揚げやこんにゃくやじゃがいもやつみれや……、とにかく色んなもんがぐらぐらと煮えている。
「美味しそうやけど、こんな真夏に何でおでんやねん?」
「海の家――、ゆう気分にならへん?」
「ならへん。海の家の定番いうたら焼きそばかカレーやろ」
 俺と日向子の、感受性の違いというやつやな。付き合って二年目になるけど、会えるんは週末だけ。海行ったんは去年の一回だけやもんなあ。意思の疎通がまだまだやてゆうことや。
「そうかあ。ほんなら明日はカレー焼きそばにしょーかなあ」
 妙な理屈で明日のメニューをさくっと決めると、気を取り直して日向子は尋ねた。
「どれする?」
「何でも。あ、大根は入れとってくれ」
「はーい」
 ちょっとだけ悩みながら、牛筋とこんにゃくと大根をよそって、日向子は器を置いてくれた。
「はい、どうぞ」
「お、ありがとう」
 礼を言って両手を合わせる。物を食べる前には、作ってくれた人にきっちり感謝を捧げんとあかん。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
 ちょいちょいと芥子をつけて、ほっこりと煮えた大根を、ふーと冷まして一口かじる。熱さと旨味と一緒になって、幸せがじわーっと口中に広がった。
「……あ、美味いな」
「ほんまに?」
「ほんまや。うちのおかんより上手なんとちゃうか」
「またまたー」
 ちょっとはにかむように、そやけど嬉しそうに、日向子は菜箸で鍋をつつきながらほわっと笑った。それがおかんには絶対に真似できひん、最高の調味料やて気づいてんのかな?
 暑いけど、食は進む。めっちゃ進む。幸せ太り、いう言葉があるんが、日向子とおったらわかる気がする。
 ……けど、これ以上太ったら、しまいに俺は『ぼんちゃん』ゆうて呼ばれるようになるんかな? それはちょっと、勘弁やなあ……。


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