黒衣の女公爵  


第一章 「急使」 2


 デレス王国の国土は、大きく五つの州に分轄されている。王都クルプアがあるマルト【中央】 州と、それを四方に取り囲む、ミルズ【東】・エシラ【西】・サテラ【南】・エトワ【北】の四つの州である。
 国王の直轄地であるマルト州を除いて、他の四つの州には州都が置かれ、それぞれの統治を任された公爵が住まう州城が ある。州知事を務める四人の公爵は、わかりやすく州公と呼称されていた。
 グネギヴィット・デュ・サリフォールは、エトワ州公サリフォール公爵の妹姫である。
 早世した母親はハイエルラント四世の姉であり、母譲りの高雅な美貌は、夏の神の象徴である気高い白百合に喩えられていた。 抜き身の剣と共に、デレス王家の紋章にも描かれたサリュートキュリスト【夏男神の百合】、デレス王国の社交界に燦然と君臨する、当代きっての名花である。


*****


「グネギヴィット」
 慕わしげに呼びかけながら入室してきた王太子を、グネギヴィットは淑やかに膝を折って迎えた。
「すっかりとお待たせをしてしまったようだ、失礼をしたね」
 身を起こしたグネギヴィットに長椅子を勧めて、ユーディスディランは侍従に目配せを送り、さりげなく人払いをした。
「とんでもございません。お忙しい最中にお時間を割いて頂けましたこと、心より感謝致しております」
 しっかりとした返答であったが、青ざめたグネギヴィットの口元に微笑みはなく、黒い瞳は不安げに揺らいでいた。 憂いを帯びた表情は悩ましく麗しかったが、ユーディスディランはグネギヴィットを口説きにかかる前にその心情を思い遣った。
「あなたがそれほどまでに、動じておられるとは珍しいね。一体何の御用でおいでになられたのかな?」
 上流の女性は感情の制御に長けているものだ。ましてグネギヴィットは、同情を引いて男の心を乱すような型の女性ではない。 目に見えて悄然としているからには、それなりの理由があるのだろうと思う。
「単刀直入に申し上げます。マイナールへの帰郷を取り急ぎお許し頂きたく、無作法を承知で参上致しました」
 グネギヴィットは婉曲した駆け引きはせずに、一刻の時も惜しむようにしてユーディスディランに訴えかけた。
「帰郷をしたい?」
「はい」
 予想外の唐突な申し出に、ユーディスディランは眉を顰めた。新年を迎えておよそ半月、季節は冬の真っ只中である。 色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれた、王宮の窓の外では今も粉雪が舞っている。グネギヴィットの故郷である、 エトワ州の州都マイナールへと向かう街道は完全に雪で覆われているはずだ。例年であれば州城で越冬するところを、 グネギヴィットはユーディスディランから熱心に請われて、今季は初冬から雪解けまでの間を、王都で過ごす約束になっていた。
「このように旅には向かぬ季節に、約定に背いて王都を離れたいとは実に穏やかではない。私の求婚は、 それほどあなたを困らせてしまったということかな?」
「……いいえ」
 やんわりと責めるような王太子の問いに答えて、グネギヴィットは緩やかに頭(かぶり)を振った。
「マイナールより早馬が参り……、兄が重篤だという知らせが届きました」
「――何?」
「エトワ州公、シモンリール・デュ・サリフォールが危篤であると申し上げているのです」
「まさか、何かの間違いだろう!?」
 二年前に爵位を継いだばかりの現サリフォール公爵は、生来身体が丈夫ではなかったが、まだ二十代前半の若さである。 血と年が近いシモンリールはユーディスディランにとって、幼少の頃から親交の深い頼もしい臣下であり、 これから先も四州公の筆頭として、やがて迎える彼の御世を支えてくれる筈であった。
「間違いであって欲しいと、わたくしも切に願ってはいます。ですが……」
 衝撃を受けるユーディスディランに、グネギヴィットは硬く握り締めていた一通の封筒を差し出した。
 記された表書きはグネギヴィットの名である。自分宛で無い手紙を開くのには躊躇いがあったが。令嬢の眼差しに促されて、 ユーディスディランは中から便箋を取り出した。
「これは誰の手によるものなのだろう?」
 驚き乱れる心を鎮めながら、情報の正確さを確認するために、ユーディスディランはその出所を尋ねた。
「当家の執事が書いて寄越したものです。祖父の代から仕えてくれている忠実な臣ですから、彼がわたくしに、 悪辣な嘘をつくことはございません」
 サリフォール家の有能な執事は私情に走らず、当主シモンリールが風邪をこじらせて肺を患い、日夜喘息の発作に苦しんで、 急激に身体を弱らせていった経緯を客観的に綴っていた。
 さらに手紙の後半で、公爵家の相続について触れ、シモンリールの病が篤くなる中、総領であるグネギヴィットが不在とあって、 一門の分家の間に不穏な動きが見られる、お家安泰の為にも、早急(さっきゅう)に戻って来て欲しいと結んであった。
 読み終えた手紙を返して、ユーディスディランは思慮深い暗紫色の瞳で、無言のままにグネギヴィットを見つめた。
「――」
「兄に子が無く、他に兄弟がおらぬ以上は、わたくしが正統なサリフォール家の後継です」
 しばしの沈黙を破って、ユーディスディランが言いさす前に、グネギヴィットは言葉に満たない王太子の言を遮った。
「幸いに――と申し上げるのは誠に失礼かとは存じますが、殿下の求婚を、わたくしはまだお受けしておりません」
「私の妃には、なれないということだろうか?」
 男系が途切れた家系で、女性が爵位を継ぐ例(ためし)はままあることだ。しかし、もしもグネギヴィットが エトワ州公サリフォール公爵の位を継ぐような事態になれば、王太子妃として立てることは極めて困難になってしまう。
「……少なくとも、兄の先行きが知れるまでは、明確なお答えを致しかねます」
 でき得る限りの冷静さを保ってグネギヴィットは回答した。病に苦しむ兄のことも、お家騒動で揺れかけている一門のことも 心配だが、王太子の求愛にほだされてもいいという想いがなければ、冬の間の王都への逗留を承諾してなどいない。
「ならば私にできることは、シモンリールの全快を祈ることだけのようだ」
 他にどうすることもできずに、ユーディスディランは盛大な吐息を漏らした。グネギヴィットの表情を確かめながら言の葉を続ける。
「マイナールへの帰省を許そう。病床ではみな気弱になるものだ。あなたの看病はなによりの良薬になるだろう。 早くお顔を見せて、兄君のお心を安寧させて差し上げるといい」
「ああ……、ありがとうございます」
 ほっと安堵した様子で、謝辞を述べるグネギヴィットに、ユーディスディランはわざとらしいしかめ面をしてみせた。
「それから叱咤もしておいてくれるかな。シモンリールが元気になってくれないと、私の人生もまた色褪せてしまう、とね」
「……はい」
 答えてグネギヴィットは艶やかに頬を染めた。花びらのような唇に、ようやく浮かんだ淡い微笑みは、 ユーディスディランの恋情に希望の灯をともす。
「いつ、王都を発たれる?」
「邸の者には、既に旅の支度を命じております。王宮を辞させて頂きましたらすぐにでも」
「そうか」
 頷いてユーディスディランは席を立ち、グネギヴィットに右手を差し伸べた。重ねられた指先を引き上げて、 長椅子から腰を上げた愛しい令嬢の瞳を覗き込む。
「冬の旅は厳しいものだ。道中くれぐれも気を付けて行かれるように」
「ええ、ユーディ」
 選ばれた者だけが口にすることを許された特別な愛称で、グネギヴィットはいとおしむようにユーディスディランを呼んだ。
「楽しい時間をありがとうございました。殿下とこの冬を共に過ごさせて頂いたことは、わたくしの生涯において良き思い出となるでしょう」
「この冬の幸福を、私は今季限りのものにするつもりはない、グネギヴィット」
 もたげたグネギヴィットの指先に唇を当てて、ユーディスディランは神にも祈る心持ちで、再度の告白をした。
「シモンリールの快気の知らせを。それから、あなたからの色好い返事をお待ちしている。愛しています、グネギヴィット……」
 記憶に刻むようにして求められた口付けを、グネギヴィットは神妙な面持ちで受け止めた。


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