黒衣の女公爵  


第四章 「寒椿」 3


 迫る夕闇を恐れるようにして、州城のそこここで照明が灯されてゆく。見舞いの是非を問う先触れにシモンリールが頷くと、 気を持たせるような時をしばし置いてから、優雅にドレスの裾を引いて、グネギヴィットが案内されてきた。
「お疲れ様だったね、ガヴィ」
 労いの言葉をかけ、侍従の手を借りながら寝台にゆっくりと身を起こすと、シモンリールは美しく装い直してきたグネギヴィット を満足げに眺めやった。
「はい。起き上がっていらして、大丈夫なのですか?」
 儚くやつれた兄を気遣いながら、グネギヴィットは淑やかに尋ねる。雅やかなドレスに袖を通し、髪型と化粧も丁寧に直して、 身も心も貴婦人へと戻っていた。
「ああ。今は少し、気分がいいからね。君が寄越してくれた花のお陰かな」
 シモンリールはそう言って、花瓶に活けられたオルディンタリジンに視線を向けた。ルアンはグネギヴィットの 言いつけを守ってしっかりと吟味をしたらしく、見事に咲き揃った椿の花枝は、グネギヴィットの期待通りに病床の兄を慰めてくれ たようだ。
「もう咲いている頃だろうと気にかかっていたのだけれど、物が物なだけにね。わがままを言って運ばせるのは憚られていたのだよ。 ありがとう、ガヴィ」
「いいえ、喜んで頂けたのなら、よかった」
 幸いにしてシモンリールの容態が落ち着いているので、久方ぶりの兄と妹の語らいに水を差さぬようにと、使用人たちは示し合わ せて公爵の寝室から下がっていった。
「だけど、今日一番の見舞いは君のその姿だね。もっと近くに来て、よく見せてはくれないか」
「はい」
 シモンリールの要望に応えて、グネギヴィットは兄の寝台に添った。ぽんぽんと寝具を叩く手に促されて、寝台の縁に腰掛ける。
「……幸せな恋をしてきたようだね。私の自慢の妹は、以前にも増して綺麗になった。ドレスも素敵だ。見たことのない型だけれど、 王都であつらえてきたのかい?」
 ひとたび貴婦人の装いに改めると、匂やかな淑女に変わる妹を、シモンリールは手放しで褒めた。グネギヴィットの自主性を認め、 必要に応じて男の服を纏うことを許しながらも、本当は彼女には、いつまでも、深窓の姫君のままであって欲しかった。
「いいえ、これは……、靴も宝石も一揃いに、王太子殿下から贈っていただいたものです」
「殿下のお見立てなんだ。流石だね」
「ええ」
 恥じらいに頬を染めるグネギヴィットをほほえましく受け止め、シモンリールは久しく目通りをしていない王太子を懐かしむように 遠い眼差しをした。
「あの方のことだ、国王代理として日々精勤しておられるのだろうけれど、根を詰め過ぎていないかと心配だ。 お元気にしていらっしゃるのかな?」
「はい、王太子殿下は。それに、両陛下も。お三方ともつつがなくお過ごしでいらっしゃいます」
「そうか……」
 噛み締めるように呟いたシモンリールを見つめるうちに、グネギヴィットはふと、ユーディスディランから大切な言葉を預かって きたことを思い出した。
「ユーディから、兄上にご伝言がございます」
「伝言?」
「はい。兄上がお元気になって下さらないと、殿下の人生もまた、色褪せてしまう――と」
「それはまるで……、私への求愛のように聞こえるね」
 シモンリールはさも可笑しそうに目を細め、柔らかく口元を綻ばせた。
「そう言われてみればそうですね」
 つられてグネギヴィットも笑みを浮かべた。ようやく曇りのない笑顔を見せたグネギヴィットに、シモンリールはずっと 気にかかっていたことを切り出した。
「ガヴィ、王都への誘いに応じた時から、君の心は決まっていた筈だ。殿下にはきちんとお答えをしてきたのかい?」
「いいえ。勿体ないお言葉は賜りましたが、返事まだ……」
 その場限りの嘘をついたところで、シモンリールを騙し通せる筈もないので、グネギヴィットは正直に首を横に振った。
「参ったな。どうしてすぐにお答えをしなかったんだい?」
「どれほど舞い上がってしまったとしても、数日をおいてからお受けするのが淑女のたしなみだと、ソリアートンに言い含められて おりましたから」
「あの爺やは! この肝要な時に時代錯誤な躾をしてくれたものだ」
 思わず額を押さえて、ソリアートンの古風な石頭を嘆いてはみせたが、シモンリールを本当に苛立たせているのは自分自身の 脆弱な身体だ。もしもシモンリールが息災でありさえすれば、今頃ユーディスディランとグネギヴィットの婚約の知らせが、 国中を沸かせていたことだろう。
「私が不甲斐無いばかりに……、ガヴィには苦労をかけるね」
「水臭いことを。兄妹(きょうだい)が助け合うのは当たり前のことではありませんか」
「私はその、当たり前のことをしてやれない。君にもアレットにも、いつも助けられてばかりいる」
 自嘲するようなシモンリールの物言いに、グネギヴィットの胸は詰まった。彼女の知る兄らしくない、気弱な面持ちがたとえようも なく切なかった。
「何をおっしゃいます。兄上はご立派にサリフォール家の当主としてお立ちになり、エトワ州公をお勤めでいらっしゃいます。 それがわたくしやアレットにとって、どれほど頼もしく誇らしいことかおわかりになりますか……?  わたくしでは力不足で、代行といっても男の服を着て、せいぜい意地と虚勢を張るくらいしかできません。ですから今は、 お身体を厭い療養に専念をなさって、一日も早くお元気を取り戻して下さい」
 こみ上げる涙をなんとか目の淵に止めて、グネギヴィットはシモンリールを精一杯に励ました。どうか、諦めず、生きて、 欲しいと――。希(こいねが)うのはただ、それだけだ。
「……そうだね……。ありがとう……」
 その想いを胸に刻みながら、シモンリールは細い指先を伸ばして、グネギヴィットの頬に優しく触れた。愛おしげに、寂しげに、 その顔をいつまでも覚えておこうとするように。
「悪いね、少し疲れてしまった。せっかく見舞いに来てもらったばかりだけれど、もう休んでも構わないかな」
「勿論です。侍従を呼びますので、ごゆるりとお休みになって下さい」
 そう答えながらも、すぐには立ち去りがたく動けずにいるグネギヴィットに、シモンリールは静謐な微笑みを向け、 彼女が生涯忘れ得ぬような、穏やかな声音で名を呼んだ。
「ガヴィ」
「はい」
「自分の心を、決して偽ることなく、正直に生きてゆきなさい。君が本来あるべき姿で幸せを掴めるよう、 私も……頑張ってみせるから」
「はい、兄上……」
 約束を固く誓うように頷くと、グネギヴィットの睫の先から、涙が一粒、零れ落ちた。


*****


 やがて冬の寒さが和らぎ、雪解けの泥濘に、盛りを過ぎた椿の花が散り敷く頃――。
 妹たちの祈りも虚しく、シモンリールは不帰の人となる。
 享年二十四歳。若すぎる、死であった。


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