黒衣の女公爵  


第六章 「秘密」 1


 ユーディスディランの拝送は、何も命じずともソリアートンがそつなくこなしてくれることだろう。こんな時でもなお、 公爵家の当主としての体面を、気にしている自分自身をグネギヴィットは可笑しく思う。
 ……逢いたい時に逢えない人だった。
 恋よりも優先しなければならないものを、たくさん抱えている人だった。
 けれどもユーディスディランの存在が、ずっと心の支えになっていたのだということを、失くしてしまった今になって、 グネギヴィットは痛切に思い知る。
 女の自分は、こんなにも脆いのに――。
 明日になればまた男の服を着て、何事もなかったかのように見せかけて、グネギヴィットは州公の椅子に座るのだ。 その演技は、端から見る限り、おそらく完璧に出来てしまうのだろう。
「ふ……」
 グネギヴィットの唇から、自嘲の笑いが漏れた。自分をそして周囲の人々を、欺くことに慣れてしまった自己に嫌気がさして、 虚しくて、酷く疲れた気がした。
 ふらふらと夢遊病者のような足取りで、グネギヴィットは庭に下りた。月明かりからも逃れるようにして、物寂しく佇んでいる 四阿(あずまや)に向かう。黒髪も黒衣も、グネギヴィットの腑抜けた姿を夜暗の中に紛らせてくれるだろう。いましばらくは誰に 憚ることもなく、虚構で固めた公爵の殻を脱ぎ捨てていたかった。
 しかしながら、運命は時に悪戯好きで皮肉なものだ。
 ぱきりと枝を踏み敷く音が、力なく傾いでいたグネギヴィットの背筋に緊張を走らせた。
「誰かいるのか!?」
「……に、にゃあ」
 俄に気丈さを取り戻して誰何すると、行き過ぎたばかりの生け垣の向こうから、下手くそな猫の鳴き真似が返答した。 この馬鹿正直さでは、まさか曲者ではありえないと思いつつ、グネギヴィットは用心しながら冷静に切り返した。
「わたくしは、猫など飼っていない筈だが?」
「……」
「いつまでも隠れていないで、わたくしの前に出てきなさい」
「……はい」
 諦めたように答えて、生け垣の陰からおっかなびっくりと現れたのは、見覚えのある下働きの若者である。
「お前は――」
「すすすすすすっ、すいませんっ、申し訳ありませんっ。お二人のそのっ……、なんというかあれなところを、覗き見なんてする つもりはこれっぽっちもっ……!」
 若者は焦りに焦った様子でその場にひれ伏すと、とるものもとりあえず平謝りに謝った。その態度、そして言葉から察するに、 ユーディスディランとの別れの現場をしっかりはっきりと目撃されてしまったらしい。
「大きな声を出すのではない、痴れ者!」
 グネギヴィットは大きな体躯を縮こめている若者を見下ろして、小声でぴしゃりと叱責した。
「顔を上げて、わたくしの問いに答えなさい。お前は何故このような時分に、明かりも持たずわたくしの庭にいる?  やましいことをしていると言っているようなものだぞ」
 若者は戦々恐々としながら、そろそろと身を起こした。
「その、鋏(はさみ)を……」
「鋏?」
「鋏をこちらに……、忘れてきてしまいまして……」
 地の上に揃えられた、若者の指先はわなわなと震え、深い色の瞳は、グネギヴィットを直視できずに落ち着かなげに泳いでいる。 『鋏』という単語でグネギヴィットは思い出していた。この若者はシモンリールが存命だった頃、雪の庭で椿を切らせた新米の庭師だ。
「お前は庭師だったね。鋏というのは剪定(せんてい)用のものか?」
「はい、夕方片付けをしている時に気が付いて……。刃物の数が揃っていないと、大事(おおごと)になるって聞いたことがあった もんで……」
「その通りだ。王太子殿下がお越しになっていた折でもあるし、発覚すれば普段にも増して、大変な不始末ということになる」
 グネギヴィットは若者を見据えながら冷ややかに肯定した。若者はまた怯えるようにぶるぶると首を振る。
「そんな、そこまで考えちゃあいなかったですけど、こいつは不味いなって……。それで消灯後抜け出して、一人でこっそり探しに きてたんです……」
 ああ、これです、と若者は、剪定鋏をベルトから外して地面の上に置いた。見つけて後は戻すだけであったらしい証拠の品である。
「こっそりか、なるほどね……」
 グネギヴィットはドレスを摘み軽く膝を屈めて、黒鳥の如く優雅に鋏を取り上げると、それと若者を見比べながら懲らしめる ように言った。
「けれどもわたくしに白状している時点で、お前の失態は明るみに出ているぞ」
「そう言われてみればそうですね……。ああ……、なんてこった……」
 若者は絶望したような顔つきで、がっくりと肩を落とした。別段に悪意があったわけではなく、あまりにも深く落ち込んでいる様子なので、グネギヴィットはそれ以上、彼を叱る気にはなれなかった。


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