黒衣の女公爵  


第九章 「晴天」 4


「そういえば、酔い潰されたとか言っていたけれど、ルアンは酒に弱いのか?」
 いつもはルアンを聞き役にして、自分の話をしてゆくばかりだが、グネギヴィットはふと、彼自身のことを尋ねてみたくなった。ルアンの人となりや仕事ぶりについては、それなりに掴めているとは思う。 けれどもその背景については、エトワ州城に住み込みで働いている、勤続やっと二年目の庭師であること以外をほとんど知らない。
「うーん……、人並み程度の強さだって思いますけど、庭師の中じゃあ俺が一番の下っ端ですからね。せっかくの振る舞い酒なんだから飲め飲めって、あの日は親父さんたちにもうさんざんに飲まされて」
 エトワ州城の庭師には、ルアンの父親のような年頃の熟練した職人が多い。気のいいルアンは彼らのうんちくにでも耳を傾けながら、断ることなく杯を重ねていったのだろう。
「付き合いのいいことだね。次の日は大丈夫だったの?」
「それが酷い二日酔いになってしまって……。せっかくの非番だったんですけど、庭師長が差し入れて下さった薬を飲んで、丸一日唸りながら寝ていました。もう当分酒はいりません」
 思い返しただけで気持ち悪くなったのか、ルアンはげっそりとした顔つきをした。それを受けてグネギヴィットはにやりと笑う。
「それはもったいないことをした。来年の振る舞い酒は、量を出すより質を上げることにしよう」
「それよりも俺の後に、生きのいい新人を入れて下さい」
「そうはいかない。城で人を雇うにも予算というものがある。庭師は現状維持で足りているとの報告を受けているぞ」
 使用人の雇用に関しては、執事のソリアートンに一任してある。基本的にグネギヴィットは、彼から提出される書類に目を通し、認可を与えているだけだ。
「来年もあんなんじゃあ、俺の身体がもちませんよ……。確実に今より一つ年くってるわけですし」
 さんざんな経験をしたらしく、ルアンは情けない泣き言を述べた。
「爺臭いことを言っていないで、いい機会なのだから、上手く酒を断るということを覚えなさい。先週非番だったのはその一日だけ?」
「そうです」
「正月なのに、ルアンは少しも家に帰れなかったんだ。残念だったね」
 城勤めの身ではなかなかそうもいかないが、この国の正月、庶民は家族で過ごすのが一般的である。住み込みで働いている使用人の中には、帰省を理由に長期休暇を願い出てくる者たちも少なからずいた。
「ああ、それは……。どっちにしたって、日帰りでは無理ですから」
「そうなの? ルアンの故郷はどこ?」
「トゥスカ領のファルセー村です」
「ファルセーか! 遠いね」
「遠いって思いますかね、やっぱり」
「遠いだろう……」
 トゥスカ領はエトワ州内の北東に位置しており、ファルセー村はアズナディオス山脈の山中にある。単純に距離があるというばかりでなく、マイナールからの道行きとなるとそのほとんどが山道で、 足場の悪い冬季では踏破がさらに厳しくなる筈だ。
「けどまあ、みんな元気にやっているようですし、俺だってもう、家族が恋しいって年でもないですから平気ですよ。十五の時から郷を出て働いてますけど、たまに帰っても、甥っ子や姪っ子のお守りを させられるか、珍しいやつがいるっていうんで、どうでもいい話のネタにされるばっかりで」
 故郷にいる家族のことを、くすぐったそうな表情を浮かべながら、けれども楽しそうにルアンは語った。子を残すことはおろか、妻を娶ることもないままに喪われた兄を思い、グネギヴィットは少しだけ羨ましくなる。
「甥や姪がいるということは、ルアンにはきょうだいがいるのだな。兄上? それとも姉上なのか?」
「四つ上の兄が一人で、他には弟たちがいます。言ったことありませんでしたっけ? 俺、男ばっかり六人兄弟の上から二番目なんですよ」
 思いがけず与えられた大きな情報に、グネギヴィットは目をしばたいた。人の親になったルアンや成人したばかりのルアン、少年の頃のルアンたちを想像してしまう。
「初めて聞いたぞ。驚いたな、ずいぶんな大家族なんだね。故郷を離れているのはルアンだけなのか?」
「いえ、すぐ下とそのまた下の弟が、石英の採掘場へ出稼ぎに行っています。今の季節は閉山していますから、村に戻ってるんじゃあないかって思いますけど……」
「それでは、この正月は、家族が一同に会するめったにない機会ではなかったの?」
「まあ、そういったことになりますかね」
「お前は平気でも、お前の家族は故郷で待っていたのではないの? ルアンは何故、帰らなかった? 誰かに遠慮でもしたのか? 帰りたくない訳でもあったのか?」
「ええと、それは……」
 予想外の方向からグネギヴィットに責められて、ルアンはまごまごと戸惑った。グネギヴィットが見ず知らずの自分の家族を思い遣ってくれるのは、彼女自身が両親や兄を早くに亡くしているからかもしれないと 気付く。
「はっきりしなさい。何?」
「はい、あの、ええと……。雪山を歩くのは、慣れていても怖いっていうのもありましたけど……。俺はマイナールにいて、年始顔見世にお出ましになる公爵様を、どうしても見たかったもんだから――」
 先にしどもどとルアンに照れられてしまって、グネギヴィットは反応に困った。無性にこそばゆくてたまらないくせに、じんわりと嬉しい気もしてどうしていいやらわからない。
「それはどうもありがとうとでも言えばいいのかな? 顔見世の折のわたくしに、それだけの価値があったのならいいけれど」
「ありましたよ、充分に。綺麗でした――、とても」
 眩しいものを思い起こすような目をして、隠すことなくルアンは答えた。少女の頃から飽きるほどに浴びてきた称賛だが、ルアンの声で紡がれると、それは特別な呪文のように胸に響いて、 グネギヴィットの鼓動を忙しなくさせた。
「俺のすぐ近くにいたお爺さんが、眼福だってあなたのことを拝んでいましたよ。グネギヴィット様のお姿を見ないと、年が明けた気がしないって――。大げさだなって可笑しかったですけど、 あの日の公爵様は本当にお綺麗で、威風堂々としていなさって……。ああ、公爵様はやっぱり公爵様なんだってしみじみ思いました」
 時にごく近くにいるように錯覚してしまっても、ルアンにとってグネギヴィットはやはり遠い存在だ。周囲の人々と揉み合うようにしながら、高いバルコニーを仰いだ先にいた、気高い黒衣の貴婦人こそが 本当のグネギヴィットで、今目の前にいるどこか不安定な、七色の感情に揺れ動く彼女は、黄昏が見せる儚い夢のようにも思えてくる。
「わたくしがしゃんと立っているように見えたならば、それはきっと、ルアンのお陰だ」
「何もしちゃいませんよ、俺は」
 何もしていない。何もしては、あげられない――。州を背負い凛然と咲くグネギヴィットに引き比べると、取るに足らなく感じられる自分自身にルアンはいささか卑屈になる。
「そのようなことはない。ルアンはわたくしに兄上の椿を――、バルコニーに歩み出す勇気を、贈ってくれただろう?」
 手近に咲いていたオルディンタリジンの花弁に触れて、グネギヴィットは僅かに目を伏せた。
「ルアンにだから白状をするけれどね、わたくしはあの日、民の前に出るのが怖くて堪らなかった。誰かが代わってくれるなら、尻尾を巻いて逃げ出してしまいたかった」
「え……?」
 意外に過ぎるグネギヴィットの告白にルアンは息を飲んだ。顔見世の際に、グネギヴィットが椿を持っていることには気付いていたが、彼女がそれを、心の拠り所にしていたなどとは思いもよらなかった。

 年の瀬が押し迫った頃、ルアンは雪かきをしていた庭で、ひっそりと綻び初めたオルディンタリジンの花を見つけた。直接に新年の挨拶を告げることができないならばと。 今日のあなたを応援している人間がいると気付いて欲しいと。分に過ぎた想いを忠義でひた隠して、あの花に託し届けてもらった――。
「あなたにとって、そりゃあ大事な行事になるって聞かされていましたもんで、ひどく緊張してなさるだろうとは思ってましたけど……。どうしてそこまで、気弱になられていたんです?  バルコニーへお出ましになられて、ようくおわかりになったでしょう? この街の人たちは、公爵様のことが好きなんです。あなたのことを本当に自慢に思っているんです。公爵様はご自分が、 みなからどれだけ感謝されておいでかってことに、全然お気付きじゃなかったんですか?」
 呆然としたルアンの問いかけに、グネギヴィットは力なく首を横に振った。
「感謝だって……? まるでわからないな。民がわたくしに、感謝をするようなことがどこある?」
 聡明なようでいて、どこか世俗に疎いグネギヴィットの無自覚に、ルアンは少しずつ可笑しくなってきた。その心の中から不安を取り除いて、もっと自信を持たせてやりたいと思う。
「どこって聞かれたら、そりゃあ勿論公爵様のなさってきたことの中にあるんですよ。あなたは本当だったら、王太子殿下のお妃様になっていたような方だ。シモンリール様がお亡くなりになられて、 あなたにまでお嫁に行かれちゃ困るって言い張っていた人もいましたけど、そうなっていたところで誰にも責められるもんじゃなかった。だけどあなたは、ご自身のお幸せを蹴ってまで、 マイナールに残って下さった。女性の細腕で、俺たちの生活を守ろうと尽くして下さった。ああ、新しい公爵様は、なんてお情け深い方なんだろう。まだお若い女性でいなさるのに、そんじょそこらの男なんかよりも よっぽど頼れる方じゃないか。グネギヴィット様万歳! ――てなことになってるわけです」
 ルアンの口から面白めかして語られた、大衆受けしそうな美談にグネギヴィットは絶句した。懸命に虚栄を張りながら、賢君であろうと努力をしてきたことは事実だが、でき過ぎた虚像が一人歩きをしている ようで、とてつもなく面映ゆい気分になる。
「どうしました?」
「いや……。それは何と言うか……、実に都合よく美化されている気がするぞ。わたくしは民を第一に思って爵位を継いだわけではないし、州政の良し悪しは、兄上が立てて下さった政策や、 州府の官たちの働きに負うところも大きいのだし……」
 顔見世の折に感じた、民の熱狂の意味はこれであったのか。過剰な賛辞をすんなりと受け取れないグネギヴィットに対して、ルアンはにこにことしながら一言で片づけた。
「得しましたね。美人に生まれて」
「そういう問題なのか……?」
「まあいいんじゃないですか? あんまり難しく考えなくても。公爵様は頑張っていらしたから、みんなからのご褒美だって思えばいいんです」
 噛み砕かれたルアンの言葉は易しくて優しい。心の中の柔らかな場所に、すとんと収めてしまいたいような心地になるが、グネギヴィットの唇から零れ出すのは小さな反発だ。
「ご褒美って……。お前はまたそうやって、わたくしのことを子供のように言う」
「たまの子供扱いぐらいはさせて下さい。俺の方が、年だけは上なんですからね」
「ほんの少し年上なだけで、大人ぶるのはずるいぞ!」
 それはおそらく、自分にしか見せてくれない表情だから――。幼い少女のようにむくれてしまったグネギヴィットを、ルアンはたまらなく愛しく思う。
「公爵様は、今ようやっと二十歳でしょう? 先はずっと、長いんですから。過分なものを貰ったようにお感じでいらっしゃるなら、これから地道に返して下さればいい。少なくとも俺は、他の人じゃなくて、 公爵様が公爵様でよかったって思っていますよ」
「……うん」
 穏やかなルアンの言葉に、今度は素直に頷くことができた。自分の幻影に追いつこうとして、必要以上に足掻かなくてもいいのだと。時には子供のように、わがままに正直になってしまってもいいのだと。 グネギヴィットが潰れてしまう前に、そっと肩の力を抜かせてくれるのはルアンだけだ。

「もう行かないと――。ソリアートンが多分、心配をしている。ルアンも真っ暗になってしまう前に、庭師の作業部屋へ戻らないと不味いだろう?」
「……はい」
 名残は尽きていなかったが、既に陽は大きく西へ傾いていた。帰る方向は同じでも、二人は肩を並べてゆくことはできない。
「ああ、そうだ――。公爵様、最後に一つだけ」
「何だ?」
「あの、アレグリットお嬢様の、お披露目の日のエスコート役ってやつですけど、もうお決まりになったんですか?」
 いきなり振られた話題に、グネギヴィットは首を傾げる。
「まだ日があるからと、保留のままにしているのだけれど……、それがどうした?」
「ええとですね、あれからふと、思いついたんです。アレグリットお嬢様のお兄さん代わりを選ぶんだったら、そんなに深く悩まれるこたあない。ぴったりな方がすぐ近くにおいでなんじゃないかって」
 そう前置きをしてから、ルアンが上げた意外な名前にグネギヴィットは面食らった。
「それは――」
「いけませんかね? 馬鹿馬鹿しいとお感じだったら聞き流して下さい」
「いや、悪くはない意見だぞ。馬鹿馬鹿しいどころか、これ以上はない良策かもしれないと思う。だけど……」
 黒い瞳をふわりと緩めて、グネギヴィットはくすくすと笑い出した。
「わたくしが自分でやるなどと宣言したら、叔父上たちが泡を吹いてひっくり返りそうだぞ」
「ご親戚の方々には、しょっちゅう困らされておいでなんでしょう? たまにはぱーっと景気よくすっ転がしてやりゃあいかがです?」
「それはいい」
 その様子を想像するだけで、心に陰る雲が吹き飛んで、どこまでも明朗に澄み渡ってゆくような心地がする。つられて微笑むルアンの眼差しは優しく、晴天のような爽快感に、グネギヴィットはさらに笑った。 そうして笑い止む頃には、すっかりと腹が決まっていた。
「案外過激なのだな、ルアンは。けれど、ありがとう……。次の親族会議も新緑祭も、俄然楽しみになってきた。アレットを誘って、今夜からでも特訓を始めるとしよう。上手くやれば、最高の憂さ晴らしができそうだ」


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