黒衣の女公爵  


第十章 「約束」 2


 やがて春は、絢爛に盛りを迎えていた。
 グネギヴィットと落ち合う為に、ルアンが次の目印としていたのは小手毬である。花期の最中の小手毬は、雪のような白い小花と、豊かに茂る緑葉の対比が遠目にも美しい。群生させた小手毬の、 か細い枝々はしなやかに枝垂れて、ルアンの胸から足元までをも覆い隠していた。
「ルアン」
「はい」
 近頃のグネギヴィットは多事多端であったらしく、それは七日ぶりの訪れであった。防虫の為に施していた薬剤の散布を中断し、無造作に覆面をずり下ろしたルアンは、グネギヴィットを視界に捉えて振り向きざまに呆然とした。
「どうした?」
 ルアンの反応にいたく満足をしたらしく、グネギヴィットは手にした扇をさらりと開いて嫣然と微笑んだ。その効果のほどをわかっていながら実に意地悪だ。
「い、いえっ、あのっ……、す、すみませんっ……。女性の公爵様がいらっしゃるとは思ってなくて……、ひどく驚いたもんだから……」
 ルアンと過ごすグネギヴィットは男装でいるのが基本である。けれども今日の彼女は、品のいい薄紫色のドレスを身につけて、その腕に生成色のショールを掛けていた。緩く巻いてふんわりと結った濡羽色の 髪と、いつもより柔和に見える表情には女性らしい艶があり、開いた襟元から覗く肌理細やかな雪肌が眩しくて妖しい。
「今日は政務に就いていないからね、朝からずっとこの格好だ」
「は、はあ……」
 それをこんなにも至近で拝むのは、慣れないルアンにとっては目の毒というものだ。嬉しいながらもどぎまぎとしてしまって、ルアンはグネギヴィットとまともに目を合わせていられない。 だからといって、その下にある紅を引いた花唇や、さらに下にある胸元に視線を固定するのは後ろめたい気がする。
「ご政務じゃない日に、何でまたこんなところに……?」
 照れと煩悩を振り払うようにわしわしと頭を掻いて、結局目線を落ち着けることができないままにルアンは尋ねた。時間帯こそいつもと同じだが、政務終わりでないグネギヴィットがルアンのもとへやって来たのは、 そういえば初めてのことである。
「週末から城を空ける予定だから、ルアンに暇乞いをしに来てやった」
 小憎らしい物言いながら、なんともはや可愛いことを言ってくれる。相変わらず自覚の欠落したグネギヴィットにぐらぐらとさせられながら、ルアンは勘違いをしてはいけないと再三己に言い聞かせた。
「ああ、えっと、もうすぐ新緑祭でしたっけ?」
「そう、向こうでも色々としておくことがあるからね、日にちにゆとりを持たせて早めに発つことにした。行ってくるよ、王都に――」
 言いながらグネギヴィットは、複雑な色味を帯びた眼差しをした。
 王都でグネギヴィットは、かつての恋人である王太子と再会することになるだろう。互いに強く惹きあっていたらしい二人の別れが、どれだけ悲痛なものであったかをルアンは知っている。 あれから一年と少し経って、彼女たちの想いはそれぞれにどう変わっているのだろう――? 憐れみとも妬みともつかない感情で、ルアンの胸の奥はつきりと痛んだ。
「しばらく顔を出してやれないけれど、わたくしが見ていないからといってサボるのではないぞ」
 そんなルアンの心情など知る由もなく、グネギヴィットはごく自然に表情を明るくして軽口を叩いた。
「大丈夫ですよ。公爵様がおいでじゃない方が、かえって俺の仕事は捗ると思いますから」
 だからルアンも微笑みながら答える。公爵として州公として、多くの負担を抱えているグネギヴィットの心を、僅かなりとも軽くすることができるならそれでいいと思うのだ。
「それはどうして?」
 すっと目を細め、グネギヴィットは閉じた扇の先を高飛車にルアンの顎に突き付けた。軽くのけぞらされながらルアンは諸手を上げる。
「どうしてって……、実際そうじゃないですか。今だって俺を締め上げて、手を止めさせていなさるでしょう」
「違いない」
 楽しげに笑いながらグネギヴィットは扇を引いた。今日はとても機嫌がよさそうで、ルアンもまた嬉しくなる。
「そうだルアンに、何か土産を買ってきてやろうか? 甘いものがいい? それとも辛いものの方がいい?」
「何だって食べ物限定で聞くんですか? 辛いものの方が好きですけど、どっちにしたってそんな、足が付きそうなものは受け取れませんよ。公爵様が元気に帰って来て下さったら俺はそれでいいです」
「うん……」
 グネギヴィットの眼差しが床しく流れ、目の縁がはにかむように淡く染まった。その僅かな表情の変化が、今日はやけに艶めかしく見えてしまってルアンは困ってしまう。
「――しゃ――まー、ど――すかー?」
 僅かに降りたこそばゆい沈黙の間を縫って、切れ切れの声を風が伝えた。
「何か言ったか? ルアン?」
「いえいえ、女の人の声でしたよ? 今のは」
「そうだった?」
「――しゃくさまあ」
「でしたよ。ほらまた」
 釈然としないグネギヴィットにルアンが促して、二人黙って耳を凝らすことにした。
「公爵様あ、グネギヴィット様あ、どこですかあ? いらっしゃったら返事をして下さーい」
 グネギヴィットの名を呼ぶ高い声が、今度ははっきりと二人の耳に届いた。先ほどよりも近い。
「マリカだな、この声は。ソリアートンに言われて、わたくしを捜しに来たのかな?」
「何を暢気に。このまま俺とここにいちゃあ不味いんじゃないですか?」
「まあそうなんだけど」
 ルアンの気はやきもきと焦るが、渋るような顔つきをしてグネギヴィットはぐずぐずしている。
「公爵様あ」
「……だんだん近づいて来てませんか?」
 小手毬の白い花に彩りを添えている、つつじの生垣の向こうのそのまた遠くの木々の下で小さな影が揺れて、声の主らしい若い侍女が姿を現した。結局逃げ遅れたグネギヴィットはさっと身体を低くして、こそこそとルアンの背後へ 回り込む。
「ち、ちょっと何をなさってるんですかっ!?」
 腰を屈めたグネギヴィットに、服の背中をぎゅっと掴まれてルアンは狼狽する。肩越しに振り返るルアンを、グネギヴィットは上目遣いに見上げて小声で命じた。
「わたくしがいるのは気にしなくていいから、ルアンは真面目に仕事でもしていなさい。もしもあの娘に話しかけられることがあっても、どうにか上手くごまかすのだぞ」
「ごまかせったって――」
「早くなさい!」
「はいっ」
 できるのできないのと言い争っている暇はなかった。隠れる前のグネギヴィットを見咎めでもしたのか、マリカという名の侍女は迷うことなくどんどんとこちらへ突き進んでくる。ルアンは慌てて霧吹きを探し 地面から取り上げて、目の前に茂る小手毬を親の敵のように睨みつけると、一心不乱に薬剤を吹き付けているふりをした。
「もし、そこの若い庭師さん」
「お、俺ですか?」
「そうです、庭師さん。公爵様をお見かけしませんでした?」
「い、いいえ……」
 生垣の向こうに立ち止まった侍女に答え、ルアンはふるふると首を横に振った。あなたがお捜しの公爵様は、今俺の背後で身体を縮こめて、背中にぎゅうっとしがみついています――とは言えない。
「おかしいですねえ。この白い花のあたりに、公爵様が見えたように思ったのだけど……」
 呟きながら侍女は、きょろきょろと周囲を窺った。小手毬もつつじも、密集しているように見えて隙があるかもしれない。花や枝葉の間から、グネギヴィットのドレスの色が覗いていやしないかとルアンは心配になってきた。
「さ、さあ……。俺はずっと、自分の手元ばっかりしか見てなかったもんで……。あ、そ、そういえば、誰かがさっき近くを通って、あっちの方へ歩いていったかも」
 冷や冷やしながらルアンは、侍女の注意を逸らそうと適当な方角を指差した。
 グネギヴィットが額を覆いたくなるほど拙い嘘をであったが、女主人がまさか庭師の後ろで息を潜めていようとは、侍女には思い至らなかったらしい。そうなると疑う理由はさらさらないわけで、侍女はルアンの虚偽をあっさりと信用した。
「そうですか、ありがとうございます。お仕事の邪魔をしてごめんなさいね。ところで、私は公爵様付きの侍女でマリカというのですけれど、庭師さんのお名前は?」
「俺ですか? ルアンですけど……」
「そうですか、ルアンさんとおっしゃるのね。ねえルアンさん、今度お休みが合ったら、私と一緒に町へ遊びに行きません?」
「――へ?」
 世間話をするようにあっけらかんと、初対面の侍女に粉をかけられてルアンは唖然とした。そんなルアンを前に、侍女は嫌みのないしなを作る。
「いきなりこんなことを言ってはご迷惑でしたでしょうか? また日を改めて声をかけますから、よかったら前向きに考えておいて下さいね」
「は、はあ……」
 困惑するルアンにひらひらと愛想よく手を振って、侍女はまたグネギヴィットを捜しながら、ルアンの教えた方向へと消えていった。


*****


「……行ったようだね」
 他者の気配がないことをしっかりと確かめてから、グネギヴィットはルアンの服を握り締めていた手を放した。そうしてからがちがちになっているルアンの背中を、解すようにぽんと叩いてやる。
「お疲れ様、ルアン」
「はーっ……」
 大きな吐息をつきながら、緊張を解かれたルアンは一気に脱力した。そんな彼を尻目に立ちあがって、グネギヴィットはたくし上げていたドレスの裾を整える。
「全く、男の服でいる間は心地よく放っておいてくれるくせに、たまに女らしくしていると、思い出したように過保護になるのだから――」
 ここにはいないソリアートンと侍女に向けてぶつくさとぼやいてから、グネギヴィットはちらりと横目で、まだ心臓をばくばくさせているらしいルアンを見上げた。 しっかりとした筋肉の付いた大柄で男らしい体躯の上に、平凡だが人の良さそうな浅黒い顔が乗っている。
「それにしても、ルアンも隅におけないのだね。よくあんな風に誘われるの?」
「めっ、滅相もない! ああやって城の女の人と口を利く機会からしてほとんどないことだし――。俺みたいなのは、あんまり見かけない田舎者だからって、たまにからかわれるだけですよ」
 ルアンはぶるぶると首を振りながら慌てふためいて否定した。けれどもグネギヴィットは納得していない様子で、ふんだんに含みを込めた相槌を打つ。
「ふ、う、ん」
「本当ですって! 信じて下さいよ」
 さらなる弁明を探しながら、ルアンはだんだんと虚しくなる。恋人でも何でもないグネギヴィットに、何をどう言い訳したところで不毛なこと極まりない。
「それならそれでいいけれど、さっきのマリカのことは、わたくしが王都へ連れて行く予定にしている。悪かったな、ルアン。二人で楽しいお出かけは、残念だけれど当面の間お預けだ」
「いえ、俺はそんな、別に悪くも残念にも思ってないですから……」
「めったにない機会なのだろう? せっかく寄せてもらった好意を、邪険にすると罰が当たるぞ」
 一体さっきから何なのだろうかこの会話は? グネギヴィットに当てこすられている理由がわからずに、ルアンもいささかやけっぱちな気持ちになってくる。
「あのですね、公爵様。それってあの侍女さんと懇ろになれって、俺に勧めてるんですか……?」
「知らない。マリカとこれからどうなろうとお前の勝手だ。ルアンの好きにすればいいだろう?」
 当初の上機嫌はどこへやら、すっかりとねじくれてグネギヴィットはそっぽを向いた。ルアンは正面突破を諦めて、一旦脇道に逸れることにした。
「公爵様、公爵様。公爵様が今度、州城に戻って来られるのはいつですか?」
「そうだね、早くて一カ月後。場合によっては二、三カ月先に延びるかもしれないけれど――。だからどうした?」
 ルアンの問いに対して、グネギヴィットはきっちりとけれどすげなく答えた。
「どうしたって、だから、実現がそんな何カ月も先になるような誘い文句なんて、あの侍女さんは城に帰って来られる頃にはとうに忘れちまってるんじゃあないかってことですよ。真に受けて過剰な期待をしていたって、 馬鹿を見るだけってもんです」
「どうかな、それは。たとえ口先だけの約束であろうと、わたくしならば簡単に忘れはしないけれど」
 ああ、あった。突破口を見つけた。一刻の時も惜しんで、グネギヴィットと話していたいのはさっきの侍女のことではない。ルアンは拗ねたようなグネギヴィットの横顔を眩しく見つめながら、語る言葉に秘めたる想いをそっと忍ばせる。
「だったら、どうか――、覚えておいて下さい。公爵様が王都から戻って来られたら、公爵様の花の前でお会いしましょう」
「わたくしの、花?」
 話題の中心はさりげなく、次の密会場所のことにすげ替えられていた。視線を戻してグネギヴィットは、ルアンのいつにない真剣さにどきりとする。
「はい、サリュートキュリスト【夏男神の百合】です。お戻りになられる頃には咲いていると思いますよ。あの花が一番綺麗に見られるのは……、そうですね、やっぱり、マルグリット様の名前がつけられた夏の園でしょう。その中でどうです?」
「いいよ。帰ってきたら母上の園で――、サリュートキュリストの前で会おう」
「はい……」
 グネギヴィットの承諾にルアンの胸は甘く痺れる。他の約束なんていらないとルアンは思う。
 また会いたい。その願いを。また会える。その望みだけで。切なくも幸福に満たしてくれるのはグネギヴィットだけだから。
「俺は今、公爵様とのお約束だけで手一杯なんです。あなたが俺を必要ないとおっしゃるまで、他の誰かに付き合えるような余裕なんてありません」
「……馬鹿だな、ルアンは。本当は、わたくしの『気晴らし』の相手こそ後回しにしてしまっていい。もしも憎からず想う娘ができたなら、その時には……、わたくしがどれだけごねたとしても、お前自身のことを 優先しなくては駄目だぞ」
 一瞬の間をおいてから、グネギヴィットは静やかに笑んでそう言った。グネギヴィットは主人でルアンは使用人で。互いに恋を交わす対象になりえぬことなど、ルアンとてはなから、重々に承知はしているが――。
「公爵様、俺は――」
「どうした? ルアン。怖い顔をして」
 怪訝そうに尋ねるグネギヴィットの瞳を前に、ルアンは衝動的に明かしかけた本心を呑み込んだ。言ったところで、何をどうできるわけでもない。言ってしまったら、 おそらく全てがおしまいになってしまう。
「すみません。あなたの珍しい姿に当てられて、俺は今日、どうかしてるみたいだ……。また誰かが捜しに来ないうちに、とっととお行きになって下さい」


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