黒衣の女公爵  


第十二章 「蕾姫」 2


 父王とアレグリットの間に、そんな一幕が起こっていたなどとは、露ほども知らず――。
 大盛況の大広間の中、王太子ユーディスディランの気だけは、あいもかわらず重苦しく沈んでいた。
 酒杯を片手に壁際を飾り、最初ばかりは頑として、近寄りがたさを漂わせていたユーディスディランである。
 しかしながら、王太子妃になりたがるような令嬢たちは、得てして厚顔無恥であるものだ。 ここで遠慮をしていては、他者に出し抜かれてしまうといわんばかりに、一人が無邪気さを装って先陣を切ると、後は雪崩れるように押し寄せて、ユーディスディランが張り巡らせた棘(いばら)の柵を、 瞬く間に蹴倒してしまった。
 グネギヴィットが強烈な方法で、去就を明示したこともまた、彼女たちの背中を強く後押ししたといえるだろう。ユーディスディランには皮肉な話だが、彼の中で、大失恋の傷が癒え切っていない今こそ、 令嬢たちにしてみれば付け入る好機なのである。
 まだまだ子供じみた十代前半の姫君や、王太子妃なんてとてもとても――という引っこみ思案な令嬢までも、父兄や後見人に連れられて、一応はユーディスディランのもとへ挨拶に訪れた。
 けれども、そういった可憐な姫たちは、そうでない姫たちの手によって、ほどなく王太子の視界から弾き飛ばされた。自意識も気位も才覚も、人並み以上の令嬢たちというのは、それだけ洗練された美女揃い、才媛揃いといえないこともないのだが……。
 熱心に迫り来る令嬢たちの原動力となっているのは、大概において甘やかな感情ではない。彼女たちの欲を満たすために、争奪される冠にでもなったような気分で、ユーディスディランは辟易した。
 一見優雅に見せながら、激しく火花を散らす令嬢たちに囲まれているよりはと、ユーディスディランは結局、適当な一人を誘いダンスを始めた。以降、自分と踊ること、あるいは踊らないことに、 特別な意味を持たれてしまうのも面倒で、曲が変わるごとに相手も変えて、延々と踊り通しである。
 母后ドロティーリアは今この時もつぶさに、息子の様子を観察しながら、姫君たちの品定めをしていることだろう。全く大きな世話を焼いてくれるものだと恨めしく思うにつけ、ユーディスディランの表情は曇りがちになる。


*****


「どうかなさいまして、ユーディス様?」
 円舞の最中、軽く肩に添えられていた指先に、不意にきゅっと力を込められた。踊る相手の顔に意識を戻せば、上目遣いにユーディスディランを見上げてくる瞳には、不実を詰るような色がある。
「何でもない、ケリートルーゼ」
「嘘。今とても、つまらなさそうなお顔をなさいました。殿下はあたくしではご不満なのですか?」
 豊かな胸を、さりげなく押し当てるようにして、甘く香る身体が寄せられる。尖らせた紅い唇からは、ケリートルーゼの高慢な不平が漏れ聞こえてくるようだ。
 ケリートルーゼ・デュ・アンティフィント。
 多くの異性の目を惹き付け、同時に多くの同性を気後れさせているに違いない、自信に満ち溢れたこの姫君は、サテラ【南】州公アンティフィント公爵の愛娘である。
 その自信の根拠が一体どこにあるのかといえば、由緒正しい公爵令嬢という血統然り、金髪碧眼の華やかな容貌然り、色白で発育のよい悩殺的な肢体然り、歌舞と詩文における才能然り、 王后の気に入りであるという事実然り、次兄のキュべリエールが王太子の側近であることも然り……と、数え上げればきりがない。
 つまりは、まあ。
 ケリートルーゼは世間一般的な評価として、王太子妃の座に相当近い姫君である。十代の娘にとって三歳の年の開きは大きく、長らくグネギヴィットの陰に隠れがちであったのだが、 今年成人を迎えたケリートルーゼは、顔立ちにあどけなさを残しながらも、ふくよかに女の色香を増していた。
「あなたのような方に不満を述べてしまっては、あなたを女神とも崇める者たちから、大切なご婦人を侮辱したと剣を向けられてしまうだろう。毎日熱烈な懸想文を受け取っておられるようだと、 キュべリエールから聞いている」
「おしゃべりですのね、キュール兄様は。ユーディス様はあたくしに、お文を書いては下さいませんの?」
 ケリートルーゼの問いは、天衣無縫というか図々しい。公爵夫妻と三人の兄から溺愛され、蝶よ花よともてはやされてわがまま放題に育った――。それも仕方がないかと納得させてしまうような、 愛らしさのある姫君ではあるのだが。
「兄君譲りの詩才をお持ちだと評判のあなたに、手紙を添削してもらう度胸はないね」
 女性に淑やかさを望むユーディスディランには、どちらかといえば苦手な部類の姫である。ちなみの今度の『兄』は、次兄のキュべリエールではなく、詩人の三兄ザボージュをさしての言葉である。
「ま。添削なんてしておりませんわ。それに、殿下が綴って下さったお文ならば、一行でも一言でも嬉しいもの。あたくし一生の宝物に致します」
「……曲が終った、ケリートルーゼ」
 ケリートルーゼの見えすいた嘘を、ユーディスディランはそっけなくかわした。自分も彼女に盲目でないからよくわかる。ケリートルーゼが愛しているのは己自身であり、彼女が恋をしているのは、 ユーディスディランとの結婚にもれなくついてくる王太子妃の椅子の方だ。ケリートルーゼは国一番の姫という、燦然と輝く栄誉が欲しいのだ。
「会はたけなわ――。次の曲は、じきに始まりましてよ、殿下」
 ケリートルーゼは笑顔でべったりと、ユーディスディランにへばりついて離れない。こんな時こそ別の誰かが、しゃしゃり出てきてくれないものかとユーディスディランは思うのだが、 始末が悪いことにケリートルーゼは、あらゆる意味で競争者たちを退かせてしまうような存在である。

「はいはい、そこまで」
 意外なところから助け舟は出された。詰襟の白い制服に、今日は王太子の衣裳と色を合わせた、深緑の腕章を嵌めた若い騎士が、ケリートルーゼの両肩を背後から掴み、ユーディスディランから引き剥がしたのである。
 濃いめの金髪に青灰色の瞳。徽章は王太子付きの近衛騎士隊――通称、近衛二番隊の隊長のものだ。
「どうした? キュべリエール」
「や、ちょっとした野暮用です」
 ユーディスディランの近衛騎士隊長、キュべリエール・デュ・アンティフィントは、意味深長な視線を主君に寄越してにやりと笑った。彼の両手の下では、予期せぬ次兄の妨害に、 ケリートルーゼが憤慨している。
「キュール兄様! ユーディス様はあたくしとお話し中ですことよ!」
「なんて、ケリートは言い張っていますが、どうですか? 殿下?」
 一旦は間に入ってくれたが、キュべリエールの立場は微妙なものである。ユーディスディランの返答次第では、面白半分にケリートルーゼを激励し、けしかけることもするだろう。もっとも――、家よりも主君大事を公言し、 実践してきた男であるからこそ、ユーディスディランは重用しているのだが。
「今済んだところだ、キュべリエール。ケリートルーゼ、お美しいあなたには、私などに拘らず、この舞踏会を存分に賑わわせていてもらいたいね。どうかよい夜を――」
 社交辞令を囁き、儀礼的に手の甲に口付けて、ユーディスディランはケリートルーゼを黙らせた。キュべリエールは苦笑しながら、配下の騎士に目配せを送り、口惜しげに唇を噛む妹を連れて行かせる。
「何だ? 野暮用というのは?」
 ひとまずは肩の荷を降ろした気分で、ユーディスディランはキュべリエールを促した。キュべリエールはおどけた仕種でひょいと肩を竦める。
「まーたそんなおとぼけを。ですけどまあ、こんな目立った所じゃあ本当に野暮なんで、とりあえず場所を移しましょう」


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