黒衣の女公爵  


第十三章 「人質」 2


 貴(あて)やかな『マイナールの白百合』、最近の王都では、男装の麗人としての方が有名になったサリフォール女公爵グネギヴィットには、若い身空で州政を取り仕切る才媛の評判もある。 なかなか人にしっぽを掴ませない、彼女に弱みがあるとするならば、それはおそらく妹の存在であろう。
 兄シモンリールを亡くして以来、グネギヴィットの妹に対する懸念は顕著になり、毎朝の健康診断はアレグリットの日課である。常であれば人伝に報告を上げるところを、 この日いつものように令嬢の寝室をおとなうと、難しい表情をしたグネギヴィットに、メルグリンデまでもが顔をそろえていて、アレグリットの主治医は何事かと恐縮した。
 朝から令嬢の部屋で顔を並べていた理由を女主人から聞かされて、責任の重大さに慄きながら、主治医は通常の三倍の時間をかけてアレグリットを診察した。
 結果はまずまず良好。低血圧で、貧血気味ではあるが、それは生来の体質であり、今まで通り食事に気を配り、十分な睡眠をとって、規則正しい生活を心がけていれば、 まず大事にまでは至らないだろうということ。また、節度を保ってさえいれば、王都に残ってダンスや野遊び、乗馬をするような集まりに出かけることは、むしろ、 アレグリットには不足しがちな運動になってよいだろうと主治医は言い添えた。
 この診断結果をふまえて、王后の要請にどう応じるかは、朝食後のお茶の時間の課題となった。食堂から場所を移した居間で、公爵姉妹とその伯母は、給仕を終えた使用人を全員部屋から払い出し、 それぞれ楽な部屋着姿で長椅子にもたれている。


*****


「迷う必要はないとわたくしは思います」
 妹を王都に残してゆくことをグネギヴィットは踏ん切れず、アレグリットもまた違った物思いに沈んでいる。このままでは埒が明かないとして、口火を切ったのはメルグリンデだ。
「ガヴィが王后陛下のご不興を買った。多少あの方が、大仰に演技をなされていたのだとしても、紛うことのないこれは事実です。それに対し、サリフォールはお詫びをせねばなりません。 具体的な罰則が提示されているのだから、陛下が望む形で償うのが一番でしょう」
 事態は深刻――。グネギヴィットは溜め息でしか答えられない、のだが。
 メルグリンデはといえば、姪たちには顰め面をして見せているものの、これは考えようによっては、禍(わざわい)を転じて福と為す、この上ない契機であると考えている。 グネギヴィットが罰を与えられたことよりも、人質に寄越せとまで言い出して、ドロティーリアがアレグリットに執心した、そのことにこそ意義がある。
「ガヴィの裁量を仰ぐ前に、アレットの考えを聞かせて欲しいですね。アレット、王后陛下の人質になる覚悟はできていて?」
「いいえ、伯母様」
「まあ!」
 アレグリットの頼りない、けれどきっぱりとした返答に、メルグリンデは拍子抜けした。グネギヴィットも愕然とする。
「アレット、昨日のお茶会では、王后陛下に『喜んで』とまで言っていたのに……」
「『喜んで』、陛下の人質になれるほど、やはりわたくしの身体は上等ではありませんでしたわ。わたくしの中では十分に、お姉様の罪過をご宥恕(ゆうじょ)願い、マイナールに帰らせて頂ける口実です」
 つまりそれでは、アレグリットには最初から、ドロティーリアの要請に応じるつもりはさらさらなかったということになる。狸の妹はやはり狸と感心するべきか、しかし……。 自傷的なアレグリットの見解に、グネギヴィットは眉をひそめた。
「それは王后陛下がご判断をなさることだよ、アレット。そもそもお前を診たのは当家の医師だ。言い抜けならいくらでもできるが、陛下には、お前の主治医が下した診断を過不足なく申し上げようと思う。 診断書は不要と仰せになられたのも、良くとれば信頼を頂いているわけだが、悪くとれば忠誠を試されている。どちらにせよ、裏切ることはできない」
 おそらくドロティーリアは、ならば人質になれと嬉々として命じてくるだろう。こちらから言い出したことである以上は、諦めねばならない気持ちにグネギヴィットもなっている。 ただそうなれば、自分がどうしようもなく寂しいだけで。
「ガヴィの言う通りですわよ、アレット。詭弁を弄して切り抜けられたところで、サリフォールは陛下のご厚情をよいことに、王家を謀ったということにもなりかねません。 それだけではありません、あなた自身には輿入れに障りある身であるという、悪意に満ちた烙印が押されましょう。ドロティーリア様はお遊び好きな御方。言わせて頂くなら、 どこまでガヴィに本気で怒ってらっしゃったものか、そのところから怪しいものです。あなたがあまり丈夫でないことなど、先刻ご承知の上で、それでもなお、人質に欲しいとおっしゃられたその意味を、 解さぬわけではないでしょうに」
「わかっているからこそ、ですわ、伯母様。ならば主治医の言葉に続けて、わたくしは不節制をして、すぐに身体を壊してしまうでしょうから、人質にはなれませんとドロシー様には訴えます。 言葉が本当になるように、その通りにしても構いませんわ。わたくしは王都には残れません。残りたくないのです」
 アレグリットは頑としてそう言い張った。決意は固いようである。
「アレット、どうしてそこまで……?」
 ただならぬ様相に、グネギヴィットはことの是非よりも、妹がそこまでして王都から去りたがっている訳の方が気になった。ドロティーリアはアレグリットを人質の名目で、 王太子妃候補の一人に残したがっている。最有力には早くから、アンティフィント家のケリートルーゼの名が上がっており、年齢の足らぬアレグリットは、王后の遊び相手の要素が強い付け足しに過ぎないが、 候補にあげられるだけでも名誉なことのはずだ。

「嘘つきだこと、アレットは。あなたが王都に残りたくないはずはないでしょうに」
 お茶の一服をゆっくりと味わってから、メルグリンデは一石を投じた。
「そんな、伯母様は、何を根拠にわたくしを嘘つきになさいますの?」
「アレットが今、王都にいらっしゃる殿方に、恋をしていることを知っているから」
 メルグリンデは、姪たちの反応を見比べながらおもむろにそう述べた。寝耳に水といった顔つきで、グネギヴィットは目を見開き、隠し事をいともあっさりと暴かれて、アレグリットはびくりと震えた。
「あなたには、ただ想うだけでも辛い恋だとわかっています。逃げたくなるのも道理でしょう。けれど離れてしまうと、また別の辛さがありましてよ?  逢えない寂しさ、忘れ去られてしまう悲しさ、それに……、他の人に、奪われてしまう切なさも」
 メルグリンデの指摘に、アレグリットの胸は潰れた。どれだけ焦がれても、想い続けてはいけない理由がある。だから自分には、その人の名を心に浮かべることですら苦しい。 けれど、社交界の名立たる美姫たちが、あの手この手で寵を争う――、それだけの人だ。このままマイナールへと帰ってしまえば、次に逢う時には、決まってしまった誰かの手を、 引いている姿を目にすることになるかもしれない。
「やめて下さいっ……、伯母様っ……!」
 悲鳴のような声を上げて、アレグリットは両目を瞑り耳を覆った。その今にも泣き出しそうな顔に、グネギヴィットは手を伸べる。
「そう、なの……?」
「お、姉様……」
 案じるような愛撫にアレグリットが目を開けると、間近にグネギヴィットの黒い瞳が迫っていた。
 剥き出しになってしまった恋心を、慈愛深く確かめるようにグネギヴィットに見つめられて、アレグリットは激しく動揺した。知られたくなかったのに。隠しておきたかったのに。 この脆くて、だからこそ強い、自分が幼かったばかりに幸福を失わせてしまった、大好きな姉に、だけは。
「いつの間に……、アレット。そんなにも、好きな人がいたの……? それは誰……? 何故辛いの……? 話してくれたら、わたくしは――」
「お答え……しかねますわ、お姉様。伯母様ったら、何てことをおっしゃいますの!」
「アレット!」
 メルグリンデを激しく非難し、姉の制止を振り払ってその場を逃げ出すのが、この時のアレグリットには精一杯だった。溢れ出した涙をグネギヴィットに、見られてしまわないためには。


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