黒衣の女公爵  


第十三章 「人質」 5


 サリフォール家の姉妹が足並みを揃え、未来への野心と展望を描き始めた二日後、ドロティーリアに定められた期日はやってきた。
 反省と恭順の意を端的に示すため、グネギヴィットは先のお茶会とは打って変わった貴婦人の姿で、妹と伯母を連れ王宮へと参上した。
 本気からか上辺だけなのか、へそを曲げたままのドロティーリアに謹んで謝辞を述べ、医師による診断をごまかしなく言上すると、アレグリットは予想通りに、王后の人質にされることがあっさりと決まった。
 以降の実務的な取り決めはメルグリンデに一任し、グネギヴィットはしおしおと落ち込む様を隠す努力はしなかった。内幕はどうあれ、表向きにグネギヴィットは懲戒を受けた形であり、また、サリフォール女公爵は、 決して積極的な気持ちで妹を人質に差し出したわけではないと、世に臭わせておきたい計算もあった。
 当事者たちの想像以上に、デレスの宮廷雀たちは、王后ドロティーリアのサロンで起きた事件の動向に関心を払っていたらしい。『マイナールの蕾姫』が、王后陛下の人質に取られた――。 ひいては、王太子妃候補の列に半強制的に留め置かれたという風声は、様々な憶測や心算を孕みながら、人々の耳から耳へと伝播された。
 翌日から早速、王后のもとへ伺候するアレグリットの姿が目撃されるようになったのとは対照的に、グネギヴィットは自主謹慎を銘打って社交の場から退いた。
 そうしてそのままひっそりと、マイナールへ引き揚げるものと思われていたサリフォール女公爵は、しかし噂の主役を妹姫へ譲りきる前に、王都に新たな艶聞の種を蒔きつけてゆくことになる。


*****


 王都の邸に引きこもって数日、マイナールへの出立を翌日に控えて、グネギヴィットは自邸の客間で、一人の来客と向かい合っていた。
 大きなサリュートキュリストの花束を抱えて訪れたその人は、伯母のメルグリンデが招いた客である。しかし当のメルグリンデは、客人と挨拶を交し、南方渡来の貴重な紅茶を菓子と並べて勧めると、 後は若い方だけで……などという決まり文句を朗らかに残し、早々に客間から退出していた。
「……グネギヴィット」
「はい」
 沈黙の果てに硬い声で呼ばれたので、グネギヴィットもいくぶん畏まっていらえた。焦がせるような視線に喉が渇いて、紅茶はすっかり飲み干してしまっていた。
 デレスの貴族社会では、男の側から申し入れをし、父兄や後見人の了承を得てからでないと、正式な男女交際は始められない。 グネギヴィットへの求愛をようやくに許されて、客人――ザボージュ・デュ・アンティフィントは、柄にもなく緊張している様子だった。
 グネギヴィットが空のカップを置いたのを契機に、ザボージュの呪縛も解かれたようである。ふっと息をついて、金色の頭を揺らしたアンティフィント公爵の三男坊は、凝り固まっていた長い足を組みかえた。
「ああ、一体、何から申し上げてよいのやら……。いけませんね、美しすぎるあなたを前にして、まるで詩が湧いてこない。私としたことが、今日はひどく上がってしまっているようです」
「おかしな方ですね。わたくしたちは今までに、幾度となくお会いしているではありませんか」
 それに、女の耳元で囁き慣れた叙情詩人の舌は、滑らかによく回っているとグネギヴィットは思う。不調の今でも最上級の賛辞をさらりと交えて語れるなら、調子が戻ってくればどうなることやら。
「けれど、あなたのサロンを独占させて頂くのは初めてのことでしょう。私のためだけにあなたが、時間をかけて装って下さったのだと考えると、実にこう……、たまらなくなってくるのですよ」
「大げさですね、ザボージュ」
 いささか困惑気味にグネギヴィットは微笑する。着道楽の洒落者で知られ、女の服飾にも目の肥えたザボージュをがっかりとさせないよう、常よりも念を入れて装ったのは事実だ。けれども崇める者と崇められる者、 明確に立場を違えた両者の間には、肝心要なところで滑稽なまでの温度差がある。
 それはひとまず横に置いておくことにしてザボージュは、満ち満ちてくる幸福感に身を浸し、だんだんと気分を盛り上げてきたようである。意を決した様子で席を離れると、優雅に片手を伸べてグネギヴィットを促した。
「グネギヴィット、ここはやはり奇をてらわず、古式に則らせて頂きたいと存じます。お立ち願っても?」
「ええ」
 メルグリンデと親交のあるザボージュにとって、サリフォール公爵邸の客間は、何度も踏み慣れた舞台であるらしい。迷うことなくグネギヴィットを、木漏れ日が落ち、葉擦れがささめく、雰囲気満点のテラスへと連れ出すと、 その涼しげな翡翠色の裳裾を前に恭しく膝を折った。
「こうして……、求愛者としてあなたに拝謁する瞬間を、私はどれほど夢見たことでしょう。グネギヴィット、我が麗しの白百合の君。希(こいねが)う前にお聞かせ願えませんか? 選り取りの崇拝者の中から、この私めを選んで下されたその訳を」
 申し述べられたザボージュの文言は殊勝だが、エスコートのために掴んだグネギヴィットの手は、ちゃっかりと握り締めたままである。懇願をするように見上げてくる、ザボージュの青灰色の瞳は熱っぽく、気を緩めると今にも、 頬をすり寄せられてしまいそうだ。
「ご想像の通りに、メルグリンデが預かっております縁談は他にもございます。ですが新緑祭の舞踏会で、男のなりをしておりましたわたくしと踊るため、くじを引いて下さった奇特な殿方はザボージュだけでした。 あの夜にあなたの、誠を見せて頂いたのだと考えるのは、わたくしの自惚れでしょうか?」
「ああ、自惚れでありましょうか……。今日のように淑やかなあなたも、かの日の如く凛々とされたあなたも、私は等しくお慕いしています。 二つの面をお持ちならば、倍も魅力ということではありませんか。活ける花瓶が異なるからといって、百合元来の美に惹かれる心に揺らぎなどありましょうか」
 他の婿候補者の口からは、まず聞くことができないであろう盲愛的な告白である。受け取る側にも積極性があれば、この上なく心地よい台詞なのかもしれないが……。むず痒さを我慢しつつグネギヴィットは、ザボージュににべもない言葉を返した。
「そのお気持ちに、付け入ろうとしているのだと申し上げましたら、軽蔑をなさいますか、ザボージュ? わたくしは一個人である前にサリフォール家の当主です。夫となる方に、妻として家庭では尽くしても、爵位を譲り、 権を委ねることはしないでしょう。わたくしにとって結婚は政治。アンティフィント公のご令息でいらっしゃるあなたは、婿として当家に貰い受けるに、最も益のある人質と考えました。もしもこの所以にご不満がおありなら、 直ちにこの場から立ち去って下さって結構です」
 冷たく突き放すようなグネギヴィットの手を、ザボージュはことさら近く引き寄せた。その口元に陶酔するような笑みが上る。
「それでこそ、私の胸を焦がしてやまないあなたでいらっしゃる。グネギヴィット、私の女王。あなたとの交際に綺麗な始まりを求めるほど、私は愚昧でも純粋でもありません。あなたが与えて下されるものならば、冷酷さすら痺れるような蠱(こ)。 この哀れな恋の奴隷が役に立つというならば、存分に利用なされるがいい」
 契約を印すようにザボージュは、グネギヴィットの手の甲を食(は)み、それから仰向けに傾けてゆきながら、唇を巧みに滑らせてその手のひらをも熱く吸い上げた。官能を誘い出そうとするかのような濃厚な技に、 何故だか不意に、別な若者の顔が脳裏に浮かび、グネギヴィットはびくりとして捕らわれていた手を引っ込めた。
「ザボージュ! このような非礼を認めるほど、わたくしはまだあなたという方を存じ上げておりません!」
 両手を庇った胸の奥で、グネギヴィットの心臓はじくじくと痛んでいた。こちらの気持ちを置き去りにしたまま、男の我欲に汚されてしまった気がして、無垢な少女のように身体が震えた。
「喜びに昂じて、先走ってしまったことはお詫び致しましょう。ですがグネギヴィット、あなたは明日、マイナールへと帰ってしまわれる。私を解して頂くのに、今日という日は短すぎます」
 おもむろに立ち上がり、ザボージュは物憂げに黄金色の髪を払った。気取った仕種も美辞麗句も、嫌みなくらい様になる青年だ。
 恋と色の情が密接に連動するものであることを、グネギヴィットとて知らぬわけではない。今のはただ、急な仕業に驚かされてしまっただけで、情が移れば平気になるだろうと――。希望的観測で心身を落ち着かせ、 グネギヴィットはザボージュの瞳を見返した。
「ええ、ですから……、あなたに一つご提案があるのです」
「提案? 伺わせて頂きましょう」
 グネギヴィットの手酷い拒絶に、ザボージュは拗ねたというか傷つけられた風情である。経験豊富な遊び人とはいっても、来る者だけを労なく愛でてきた、詩人の感性は繊細なのだ。
「はい。王宮でお会いした折に、ケリートルーゼがおっしゃっていたのですが、エルミルトの夏というのは王都より暑いそうですね? あなたのことですから、風光明媚な場所に素敵な隠れ家をお持ちかもしれませんが、 ザボージュ、もしも今夏のご予定がお決まりでなければ、マイナールへ避暑にお越しになられませんか?」
 グネギヴィットがそう言い終えると、とたん、ザボージュの表情に嬉々とした輝きが戻った。ごくりと唾を飲み込み、グネギヴィットの意思が変わらぬうちにと、確かめるように聞き返す。
「それは私を、あなたの城へご招待下さると――、そういうことですか?」
「ええ。縁談を進める前に、あなたという方をゆっくり教えて頂きたいというのもありますが、あなたにも普段のわたくしを、それにエトワ州城がいかなる場所であるのかを、よくよく見定めて頂きたいのです。それから……、 このようなことをお願いしますのは、厚かましいとは存じますが、妹と離れて暮らす寂しさを、紛らわせては下さらないかと……」
「ああ、グネギヴィット……! 考えるまでもありません! 愛しい人にこんなにも可愛らしいお願い事をされて、断る馬鹿がどこにありましょう? 今持ち上がっているのは、幸いにして悪友たちとのくだらない計画ばかり。 あなたのためならいくらでも反故にしますとも!」
 小躍りせんばかりに勢い込んで、ザボージュはグネギヴィットの誘いに応じた。ここまで手放しに喜ばれると、グネギヴィットとて悪い気はしない。
「それでは、城で準備を整えましてから、改めてご招待状を送らせて頂きます。不義理をさせてしまうご友人方には、わたくしが割り込みをしたお詫びを申していたと、くれぐれもよろしくお伝え下さいませ」
「それはもういくらでも。お約束ですよ、グネギヴィット。この自慢を私は、王都の悪友たちに言い触らして、お招きお待ちしています」
「ええ」


*****


 楽しみな夏の約束を手に入れて、ザボージュは浮かれ調子で帰って行った。一仕事を終え、安堵の息を漏らしたグネギヴィットは、ほくほく笑いのメルグリンデに肩を叩かれた。
「いかがでした? ガヴィ」
「そうですね、首尾よくいったのではないでしょうか? こちらが口外しなくとも、わたくしたちの交際の開始について、ザボージュの方で触れ回ってくれそうですよ」
「……それだけですか?」
「他に何が?」
 グネギヴィットの色気の欠片もない回答に、メルグリンデは深く落胆した。
「ザボージュ様をマイナールへお招きする前に、あなたはもう少し、娘らしい情操を養っておいた方がよさそうですわね。たとえきっかけは政略的なものでも、わたくしはあなたにも、幸せな結婚をして欲しいのですよ、ガヴィ」
 母親のようにそう言って、メルグリンデはグネギヴィットが州城へと持ち帰る荷物の中に、自分の蔵書を加えさせた。グネギヴィットには馴染みの浅いそれらの本が、高嶺の白百合への片恋を綴った、ザボージュの詩集であったことはいうまでもない。


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