第十七章 「無言」 4
エトワ州城は、消灯の時間を迎えていた。
疲れに疲れた一日を終えて、グネギヴィットはうつ伏せに、ぽふんと寝台に倒れ込んだ。
今宵シュドレーは、グネギヴィットの戻りを待って劇場に赴いており、グネギヴィットは夕食を、男装のままローゼンワートと二人で摂った。
シュドレーからは、州城への帰りが明け方近くになる分寝坊をしたいから、明朝の朝食にも同席しないと言われていて、
ひとまず叔父は溜飲を下げてくれたようだとグネギヴィットは安堵した。シュドレーの場合において、放任してくれるということは、
すなわち信用してくれるということであるからだ。
シュドレーは、南棟からローゼンワートを供にして帰ったグネギヴィットに、その手綱を締め直そうとする気構えと、守り役の監視下に自らを置き行動を縛る決意を、
正しく読みとってくれたのだろう。実際たいした内容ではないグネギヴィットの醜聞の芽を、大事(おおごと)にしたくない考えもあるのだろうが、
グネギヴィットとローゼンワート、それにルアンの処遇について、親族会議に諮らずにおいてくれたのは、叔父なりの優しさであるのかもしれなかった。
そんなシュドレーの信頼を裏切らぬため、ザボージュが訪れるまでのあと数日、気詰まりだがグネギヴィットは、私生活でもローゼンワートを従えておくしかない。
客人を迎えて以降は、政務以外の時間の多くを接待に充てることになるわけで、どちらがより窮屈なのかわからないが。
今グネギヴィットの寝室には、マリカが一人でかしずいてくれていた。手燭の炎で寝台脇の洋灯(ランプ)を灯し、グネギヴィットの脱ぎ捨てた室内履きを揃え、
ガウンを畳んで寝台の足元に置いたマリカは、普段よりもひそめた声で主人に呼び掛けた。
「公爵様」
「何?」
その顔を、見上げてやる気力もなくグネギヴィットは問いかける。絹の夜着に包まれた、主人の肩口まで寝具を引き上げながら、ひそひそとマリカは続けた。
「朝に言われておりました、お遣い事を済ませて参りましたのでご報告致します。ルアンさんからお返事を預かりました。『滅相もない』だそうです」
「……そう」
ルアンらしい。いっそ笑えるくらいに彼らしい、飾り気もおべんちゃらもない謙虚な返しである。ちょうどよく当て嵌まる、
呼び名すら思い付かないような関係であったとはいえ、それで済ませてしまうなんてあっけなさ過ぎるだろう。
「あと、あちらのお花を、言付かってまいりました。葉の棘にお気を付け下さいって」
「花を?」
「はい」
グネギヴィットは弾かれたように身を起こして、マリカが示す花を見やり、それだけでは足らずに、寝台を降り裸足のままで飾り卓の上の花瓶に寄った。
あらかじめマリカが置いてくれていた手燭で、下方から照らされた花瓶には、朝とは違った花が活けられていた。丸く集まって咲く、銀色がかった青い小花を、
花と同じ色味を帯びた棘々とした葉が囲んでいる。
変わった形の綺麗な花だ。
そして、庭で目にしたことはあるが、グネギヴィットが名を知らぬ花であった。それはルアンが、約束の目印に、と、指定したことがない花であることを意味している。
何故こんな、何の思い出もない花を、ルアンは選んで寄越したのだろう? 今が見頃だから? この花が咲く場所に来て欲しいから? 馬鹿な――。
マリカから伝言を聞かされたならば、『気晴らし』の相手は『もうういい』のだと、ルアンには伝わっている筈だ。
「それから、こちらを」
頃合いを見計らってマリカは後ろから声を掛け、困惑するグネギヴィットを振り向かせると、その胸元に一冊の本をずいと差し出した。
表題は、『今日から使える花言葉集』。
「どうしたの? これは」
反射的に受け取って、グネギヴィットはマリカに尋ねた。
「お知りになりたいかと思ったので、図書室で探してきました。灯りを残しておきますので、ご就寝の前にご覧になられればと存じます。
今宵も不寝番を退けておりますし、明日もまた私一人で朝のお支度に伺いますので。お休みなさいませ」
真摯な顔つきをしながら、いささか差し出たことを申し述べると、マリカは花瓶の傍らに置いていた手燭を取り上げ退室した。
その姿を見送って、グネギヴィットは手元に残された本に改めて視線を落とす。
それには栞が挟んであった。巻頭でも、巻末でもなく、そこを見ろといわんばかりの中途半端な位置に。
寝台に戻りその縁に腰掛けて、脇机に置かれた洋灯の灯りの中で、グネギヴィットは左手に本を持ち、栞が分ける個所を開いた。
右の頁に、ルアンが贈ってくれた花の細密な銅版画。余白の多い左の頁に、美しい活字の短い記述。
花名 松笠薊(エリンジウム)
花言葉 「秘めたる愛」 「無言の愛」
「……愛?」
グネギヴィットは、その花言葉のままにひっそりと、夜暗に沈む花を見つめた。
この花を介して、ルアンが伝えたかった言葉は『愛』だというのか――?
それを素直に受け入れると、グネギヴィットの中で、ルアンのどうにもなりようのない片想いの相手と、自分とがかちりと符合した。
そして同時に理解した。
その広い、寛容すぎるほどおおらかな心で、自分がどれだけ大切に想われてきたか、何の見返りを求められることもなく、ひたむきに愛されてきたのかを。
いいようのない歓喜が満ちる。なんという幸福なのだろう……。
けれどもそれは、身分の差という高い隔てを前にして、胸の奥に秘めねばならない、無言のままに終えねばならない、許されざる愛なのだ。
ルアンはだから、本当に言いたかったことだけは、何も言わず、何も言えず、頑なに口を閉ざして、ただただグネギヴィットの心に寄り添い続けてくれたのだ。
なのに、最後に直接投げつけた言葉が、『大馬鹿者』、だなんて……。
大馬鹿者はどちらか。本当に自分は、何もわかっていなかった。卑しい情欲の対象として見られていたわけじゃない。
グネギヴィットが誰であろうと、どんな姿をしていようと、愛しているからいとおしいと、愛しているから欲するのだと、あの時ルアンは訴えていたのに――。
「……ルアン」
面影に向かって名を呼ぶと、やるせなさがグネギヴィットの胸を締めつけた。
「ルアン、ルアン……、わたくしもね……」
グネギヴィットは瞳を閉じ、広げたままの本を掻き抱いて、禁じられた告白を唇の動きだけで紡いだ。
側にいたい。いて欲しい。
けれども、それは、望んではいけない。
想う端から諦めねばならない。愛されているならなおさらに。強く、想えば、想うほどに……。
「うぅ……、くっ……」
詰まった喉から嗚咽が漏れる。グネギヴィットはぐんにゃりと、寝台に崩れ落ちる。
全くもってマリカは出来すぎだろう。こうなることを予測して、グネギヴィットが命じる前に先回りしてくれたのだ。
何を気にすることもなく、グネギヴィットが存分に泣けるように。
「ふっ……、えっ……、ルアン……」
この先は、二度と呼べなくなる名が、さらなる涙の誘い水となる。傍らに本を投げ出して、グネギヴィットは枕を抱える。
今日はもう、我慢をしない。明日からは、泣かないために……。