黒衣の女公爵  


第十八章 「詩人」 3


 気はあまり進まないが、今をやり過ごして後日に回しても、いずれはザボージュに庭の案内をせねばならないことに違いは無い。
 諦めて、グネギヴィットは侍女に帽子を運ばせた。空がどんよりと曇っているので、日傘は差さないことにする。
 グネギヴィットの準備が整う間、ザボージュは先に部屋を出て、彼女の専用庭を感慨深げに眺めていた。
 木々は育ち、花々は植え替えられ、そして何よりも本人の背丈が変わって、ザボージュが子供の頃に見た庭とは、大きく様変わりしていることだろう。
 それでも、遠い記憶を揺さぶり起こすものもある。散策仕様のグネギヴィットに腕を取らせて、ザボージュは蔦が絡まる金属製のアーチをくぐった。 その後を雨避けの外衣を抱えて、付かず離れずマリカが付いて来る。



*****


「私がこちらへお邪魔したのは、あなたの妹御がお生まれになられた年の夏の終わりです。あなたの母君は、王家の重要な慶弔の機会でもないと、 王都へお運びになることがなく、父君が、産後療養中の母君を心配なさり、新緑祭の後早々に王都を辞されていたこともあって、私の母は、 滞在中に一度でもご機嫌伺いできればと、その年の避暑先にマイナールを選びました。父と派手な夫婦喧嘩をして、当てつけに父が絶対追ってこなさそうな土地を選び、 父の嫌がりそうなことをしただけ、という説もありますが……」
 今でも懲りずに、似たような喧嘩を繰り返していますからね、うちの両親は――と、ザボージュは苦笑しながら付け加えた。
「それだけ言いたいことを言い合えるお仲なのでしょう」
 とグネギヴィットは返す。本当に合っているのかどうかすら怪しい、当て所を探し探し歩く、ザボージュに連れられてゆっくりと歩を進めながら。
「まあとにかく、そんなわけで。私は母の供をして、涼しい夏のマイナールで遊び、エトワ州城をお訪ねする機会を得ました。当時、 長兄は既に社交界で自分自身の付き合いを持つ歳になっていて、次兄はユーディスディラン殿下付きの小姓勤めを始めたところ、そしてケリートは分別の付く前で……。 八つだった私は、兄妹(きょうだい)の中で唯一人、母が連れ歩くのに適していたのでしょう」
「ええ」
 簡単な相づちを打ちながら、八歳のザボージュをグネギヴィットは想像する。今でもこれだけ見事な金髪をした、目の覚めるような美形なのだ。 当時から煌びやかで、さぞかし綺麗な少年であっただろうと思う。
「母と私が、あなたの母君のサロンに招かれた時には、他のご婦人方もご一緒でした。子供は私だけで、ちやほやと構ってもらいましたが、大人の話は退屈で。 出されたお菓子を食べ終わって、暇になった私は、許しをもらって庭へ出ました。あまり遠くまで行かないよう言われていましたが、子供の好奇心は抑え難いもの。 放っておかれているのをよいことに、あっちへふらふら、こっちへふらふらと……。そうしているとどこからか、女の子の声が聞こえてきましてね、 おやと思っていると、探検していた小路の先に、金色の毬がてんてんと転がってきました」
「金色の毬……?」
 グネギヴィットの記憶に、引っかかるものがあった。庭遊びが好きだった小さい頃、自分の宝物の玩具の中に、そういうものがあったような気がする。
「はい。見つかってはいけないと思って、とっさに隠れて見ていると、その毬を小さな姫君が拾いに来ました。つやつやした黒髪に、ぱっちりとした黒い目の、 紅い唇をしたとても可愛い……」
 すらりと麗しく育ったグネギヴィットの上に、幼い瞳に鮮やかに飛び込んできた初見の姿を重ねて、ザボージュは目映げに目を細めた。
「……一目惚れ、でした」
 告白の声が掠れ、その頬が淡く染まる。純情さの欠片もないほどに、女慣れをしているはずのザボージュの、はにかむ少年ような表情に、 どう答えてよいかわからずグネギヴィットも赤面する。
「姫君は私に気付くこと無く、もといた方向に引き返してしまって、私は慌てて後を追いかけました。身を隠していたことも忘れて、 何て声を掛ければいいんだろうと考えながら。そうして広い所に出た先で、姫君を待っていた、兄君に見咎められてしまった」
「兄に」
「ええ。良く似ていらっしゃったので、きっとそうだと。サリフォール家には、自分と歳の差幾つのご兄妹がいるというようなことを、 事前に聞いていたのだろうとも思います」
 そう言いながらザボージュは、四つ辻で足を止めた。ぐるりと周囲を見渡し、しばらく記憶を探っていたが、まるでお手上げだといった素振りで首を振る。
「ああやはり、八つの頃の自分に道案内をさせるのは無理なようですね。残念です。その開けた場所には、一面に白百合が咲いていたのを覚えています。 水が、確か、女性の像の据えられた泉水があって……。どこのことだかわかりますか?」
「ええ。多分。お連れ致しましょうか?」
「お願いします」
 ザボージュが言っているのは、おそらく『マルグリットの夏の園』のことだろう。グネギヴィットの母マルグリットは体調が許せば、 そこの四阿(あずまや)で夏の午後を過ごすことを好んだ。政務終わりの父が、母と並んで夕涼みをするために立ち寄ることも度々あった。 だからグネギヴィットにも、家族との夏の思い出が多く詰まったお気に入りの遊び場だった。今はルアンとの、嬉し恥ずかしい再会の日の一幕も加えられた――。
 油断をすれば、心の内ですぐに膨れ上がってしまうルアンの姿を懸命に追い出しながら、グネギヴィットはザボージュの話に耳を傾ける。
「兄君は驚いたように私を見て、それからすぐに姫君の手を引いて行ってしまいました。私は諦めきれずに付いて行こうとしましたが、 お二人のお付きに捕まえられてしまいましてね……。端(はな)から迷子扱いを受けて、もといた客間に戻されると、そこにはあなたの父君もお見えでいらっしゃって」
「ええ」
 状況から鑑みるに、ザボージュの言う『お付き』というのはローゼンワートのことだろう。賓客の令息の首根っこを押さえられるような頭が高い『お付き』は、 どう考えても彼でしかありえない。どうやらザボージュは、父に輪をかけて妹たちを深窓の令嬢にしておきたがっていたシモンリールと、 母に忠実なローゼンワートの連携によって、グネギヴィットの『思い出の男の子』になる機会を、未然に防がれてしまったということらしい。
「母やあなたのご両親に、心配をされ、叱られた後で、長兄の影響でませていた私は、思い切って父君にお願いをしました。お庭で金色の毬で遊んでいた、 可愛いお姫様をお嫁に下さいと。父君は笑って、私もあなたも結婚するには小さすぎるから、大きくなって、 王宮できちんとお会いしてから出直して下さいとおっしゃられましてね……。あっけなく終わってしまった、それが私の初恋です」
 猪突猛進なアンティフィント家の嫡男は、歳の離れた弟に何を吹き込んでいたのだか。気が早いにもほどがある求婚の申し出に、グネギヴィットは唖然とした。
「……まるで存じ上げませんでした。父母も兄も、そのようなことは一言も……。八つの時の出来事を、よくそれだけ詳しく覚えてらっしゃいますね」
 その当時、グネギヴィットは六歳になったばかりだった。聞いたけれども忘れているだけかもしれないが、父母の教育方針や兄の行動から考えるに、 徹底して伏せられてきた可能性の方が高い。
「それだけあなたが可愛くて可愛くて、お嫁にもらって帰れないのがとてつもなく悲しかった、というのもありますが、 内輪でよく取り沙汰される話というのがあるでしょう? 私の初恋話は、私の家族間での正にそれでして。 あなたがサリフォール家の姫君であるのも大きかったでしょうね」
「貴家と当家は、代々競い合う仲でございますものね。ご家族には、サリフォール家の娘など、やめておけとでも諭されましたか?」
「まさか。いい男になって見返してやれ、あなたを私に夢中にさせて、あなたの父君兄君を悔しがらせてやれとはっぱをかけられてきましたよ。 王家の血も継ぐ姫君を、私の花嫁に迎えられるのであれば望むところだと」
「左様でございますか」
 そのはっぱとやらをかけられてザボージュが、女をたらす手練手管を磨いたのだとすれば、非常に残念だ。 グネギヴィットを攻略するための、方向性が大いに間違っている。
「あなたが披露目をされた時はとても嬉しかった。あの金の毬の姫君に、これでようやくお近づきになれるのだと。さっそく父君に交際のお許しを頂きに伺いましたが、 あなたがまだ幼いことを理由に断られ……、それを皮切りに、父君兄君には、あなたとの交際を何度願い出ても断られるの連続でした。 特に兄君はお厳しくて……、結局最期までお許しを頂けることはありませんでしたね」
 多少気の毒ではあるが、それはザボージュが、三男に生まれ『家付き』でないのは仕方がないにしても、名ばかりの『役付き』にすらなろうとせず、 自由気ままな『顔だけ』詩人でいたせいでもあって……。シモンリールがグネギヴィットに王太子妃となることを推奨していたのは、 単に政略やユーディスディランの人となりを考えてのことだけではなく、その下敷きに、自らの義弟とするのに不満足な男――つまりはザボージュに、 妹をくれてやらねばならなくなるのを回避したいという、強い気持ちがあったのではないかとも思えてくる。
 父が、そして、最愛の兄シモンリールが認めなかった男と、グネギヴィットは今、縁談を進めようとしているのだから、本当に人生はどう転ぶかわからない。 不可能なことだとわかってはいるが、自分の婿取りについての、兄の率直な意見というものを聞いてみたい。


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