第十八章 「詩人」 4
「こちらが『マルグリットの夏の園』です。サリュートキュリスト【夏男神の百合】の花壇と、泉の精の像の噴水がございます。
あなたのおっしゃられた場所であるとよいのですが」
「ああ、ここです……」
感極まったように吐息を漏らすザボージュの腕から、グネギヴィットはそっと手を放した。ザボージュは白百合の咲く園に魅せられたように立ち入ると、
おもむろに歩み寄った泉水の前で足を止め、黄金色の髪を揺らしながらグネギヴィットを振り返った。
「そうだここで……、ここに、待っておられた兄君に、あなたは楽しげに駆け寄って行かれた。私に気付いて下さること無く……」
などと、恨みがましくザボージュが言うので、グネギヴィットは何だかひどい女になったような心地がする。大好きな兄のことしか眼中になかった、
子供時代の薄情を責められているだけなのだが。
かつての兄に代わるようにして、自分に向けて微笑みかけながら、両手を伸べてそこで待つザボージュに、グネギヴィットは神妙に近付いてゆく。
この人を、好きになればいいのだろう――。
ずっと長く、想いを寄せてくれていたこの人を。そしてその想いを、広く世間に向けて公表し、ためらいなく口に乗せることができるこの人を。
見え透いた政略の上に築かれる関係だが、その成果も含めて、周囲のみなが納得し、祝福してくれるだろう。……そうきっと、ルアンですらも。
もう直接にはグネギヴィットに、声を届かせることができない、近くてけれど遠い遠いところから。
家のために、心を捻じ曲げ、愛するように、勧められた人を愛する。
一度は上手くできたことだから、二度目もきっとできる筈だ。
頭ではそう考えられるのだ。けれど――。
ザボージュの両手の上に、ためらいがちに置いた指先を強く握られて、グネギヴィットはびくりとする。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ……」
違う。
ああ、違う。この手は、違う。自分が心の底から欲しい手は、もっと大きく、骨太で、そうしてきっと温かい……。改めてそれに気付かされて、
グネギヴィットの胸は詰まる。待ち兼ねたように自分を捕え、肌に触れる愉悦を伝える、ザボージュのねっとりとした手は、次に何をされてしまうのかという、
不安を与えてくるばかりだ。
「ようやく……、私を見て下さいましたね、グネギヴィット。もう決して余所見はさせませんよ」
囁かれたそれは愛の言葉のはずなのに、グネギヴィットの心は引き攣れ悲鳴を上げそうになる。
ザボージュは、ただ見ている分には悪くない。神が造りたもうた芸術を、鑑賞しているのだと思えばいい。見て欲しいなら穴があくほど見ていてやるから、
親指の腹でうぞうぞと、こちらの指の股付近を弄るのをやめて、今すぐ、どうか今すぐに! お願いだから両手を離して欲しい!
……とはいえ、そんな気持ちは表に出せない。心がどれだけ反発していても、理性は彼を受け入れるよう告げているから。それがきっと正しいことだから……。
「マルグリットというのは、あなたの母君のお名前ですね? この園の名の由来を教えて頂けますか?」
「はい。ここは父が母のために造らせた園です。母の姿を模した噴水を置き、母が降嫁の際に持参したサリュートキュリストの花を殖やして、
暑さに弱い母が水辺で涼みながら、生まれ育った王宮を懐かしみ、夏の日々を快適に過ごせるようにと。ですから『マルグリットの夏の園』と」
「なるほど、ご両親の愛の記念なのですね。あなたの父君と母君は、幼馴染みでいらしたと伺っていますが?」
「ええ。母は披露目を済ます前年まで、マイナールの離宮で夏を越すのが恒例であったそうです。ちょうど年頃が合うからと、
メルグリンデがその遊び相手に呼ばれるようになり、母と親しくなった伯母はそのうちに、子分として父を従えてゆくようになったのだと……。
病気知らずなメルグリンデが基準ですから、虚弱な母は父の目に、一生かけてお守りして差し上げたい、たおやかな王女に映っていたそうです」
公爵家の総領と五歳年上の王女。多分に政略の臭いがするが、グネギヴィットの両親は恋愛した上で結ばれている。
もっとも、当時の父がサリフォール家の嫡男であればこそ、マルグリットの降嫁が認められたのであろうが。
「そうですか。念願を叶えて母君と連れ添われた、あなたの父君にあやかりたいものです。こちらの園へは、好きに訪れても構いませんか?」
「ええ。この園に限らず、中庭はご自由に散策して下さって構いません。わたくしは政務で、お相手できない時間も多うございますし」
嘘ばかり。
本当は、ルアンが主人を喜ばそうと丹精して手入れをし、その想いをそこここに宿らせてきた中庭を、グネギヴィットはザボージュに踏み荒らして欲しくなかった。
けれど言えない理由は、理由にできない。政敵の子息でもある婿候補に、不審を与えるわけにはいかない。自分をごまかしザボージュを騙して、この先にあと幾つ、
嘘を重ねればならないのだろう?
「お言葉に甘えさせても頂きますが、こちらに滞在中はせっかくですから、できるだけあなたに縛られていたいものですね。わずかな時間でも構いません、
また庭の案内を請うてもよろしいですか?」
「……毎日の、政務の後でよろしければ。わたくしは中庭の散策を、日課にしていますので」
庭仕事をするルアンと過ごしてきた、寛いだその時間を、ザボージュとの未来で塗り込めてゆけば、いつか諦めがつくだろうか?
この人が傍にいることに、慣れる日が、くるだろうか?
「それでは、約束を致しましょう、グネギヴィット」
「約束?」
「ええ、グネギヴィット、あなたの政務が終わるのを、私はこちらの園の四阿(あずまや)で、あなたを想い、詩作をしながら待っています。
不都合があれば遣いを寄越して下さればいい。あなたの方から誘いに来ては下さいませんか?」
ああ、自分と落ち合うためにこの人は、人目を憚る必要がないのだ。常に同じ場所で待ち合わせ、連絡には人を遣い、腕を絡めて庭を歩き、共に北棟に戻る……。
ルアンとはできなかった全てのことを、ザボージュとは当たり前にできるのだ。今日は会えるか会えないかと、どきどきわくわくとすることも、
もどかしく何日もすれ違うこともなく……。
「……わかりました」
まるで心弾まない約束にグネギヴィットがうべなうと、嬉しげに笑んだザボージュは、握ったままにしていた彼女の左手を顎の高さにもたげた。
「指切りの代わりです」
そう言ってザボージュは、グネギヴィットの小指の根元に食むように口付けた。反応を愉しむようにグネギヴィットの瞳を覗き込みながら。
グネギヴィットの心に呼応するように、遠くで雷がゴロゴロと鳴る。
「遠雷が……」
それに怯えたふりをしてグネギヴィットは、ザボージュの手から両手を抜き取った。まだ遠い雷鳴に、恐怖するほど柔(やわ)ではない。
ときめきとはかけ離れた感情で、グネギヴィットの動悸を激しくさせているのはザボージュだ。
「雨が来そうです。早く戻りましょう」
「あなたと一緒なら、濡れてゆくのも一興ですが」
長らくしてきた遠慮というものを取り払った、ザボージュの眼差しが、グネギヴィットの綺麗に浮き出た鎖骨の窪みに注がれる。
珠のような肌を弾いて、そこに集まる雨粒を啜り上げてみたい。夏物の薄い絹地や後れ毛が、しなやかな身体に纏わりつくのは見物だろう。
「そうは参りません。気が利かないと叔父たちに叱られてしまいます。――マリカ」
「はいっ、公爵様」
呼ばれて飛び出たマリカは、てきぱきとザボージュに雨避けの外衣を着せかけてから、グネギヴィットには女性用のそれを襟元まできっちりと着込ませた。
「マリカ、ちょっと首が苦しいのだけれど……」
「少しの間ですから我慢して下さい、公爵様。雨に濡れるよりましです。お肌もドレスも絶対に濡らしちゃいけません」
くどくどと主人に言い聞かせるマリカに、ザボージュは肩をすくめた。
「……よい侍女をお持ちで」
「手を出したら、破談にしますよ」
「そういう『よい』ではございませんよ」
それでは一体どういう『よい』なのか? その意図を量り兼ねるグネギヴィットであったが、ザボージュの当てこすりに気付いたマリカは頬を強張らせた。
ぽつりぽつりと、まばらな雨が庭と身体を打ち始める。雷の光と音の間が近くなりゆく中、北棟への道程を三人は急ぐ。
今この時の空と同じに、グネギヴィットの心情も、先行き不安な色をしていた。