黒衣の女公爵  


第二十三章 「激情」 7


 私的な観劇を公務なような心持ちで終えて、ユーディスディランはようやく……といった気分で王宮に帰り着いた。
 一人になって考えたいこともあり、早々に床に入ってしまいたいところであったが、居室に戻ると侍従が、国王からの伝言を預かって待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、殿下。さっそくでございますが、国王陛下がお呼びでございます」
「今夜は疲れている。見てわからんか? 大した用でないのなら、父上には明日にしてもらえるよう伝えてくれ」
 苛つきながらユーディスディランは、小姓に脱いだばかりの手袋を放り投げた。それを横目にして侍従は、恐縮した様子も見せずに食い下がった。
「それが大したご用なようです。陛下の許には今、テーラナイア元公爵夫人がご懇請にお見えでいらっしゃいまして、陛下がおっしゃるには、 殿下のお手をお借りする以上の解決策はなさそうだから、お帰り次第に殿下には大至急でいらして頂きたい――と」
「テーラナイア夫人が……?」
 予想外に挙げられた人の名に、ユーディスディランは服の襟元を緩めたところで、主君の着替えを手伝う小姓に手を止めさせた。
 テーラナイア元公爵夫人メルグリンデは、言わずと知れたアレグリットの伯母、王都におけるサリフォール女公爵の代理人である。 隣国ヌネイルを筆頭とした諸外国に渡りを付けたい時に、生半な外交官僚よりも頼みにできる要人でも、国王夫妻の古馴染みの友でもあり、 無下にはできない客ではあるが、王に面会を求めるには非常識な夜間であり、懇請という理由も穏やかではない。
「わかった。遣いはよい。このまま伺う」
 心の早鐘に駆り立てられるまま、ユーディスディランは足早に、父王の待つ客間へと急いだ。
 とてつもなく嫌な予感がした。


*****


 さて、深夜にもかかわらず、父王の呼び出しに応えたユーディスディランは。
 王の御前を辞したその足で、次に血相を変えて、母后の居室へ飛び込むことになる。
「母上!!」
 王后陛下は先刻、ご寝室にお入りだ。ご子息とはいえご夫君では無い成人男子が、就寝前のご婦人にお会いするのはどうか――と渋る古参の女官を振り切って、 押し問答の末に扉を破ったユーディスディランに、鏡台の前で若い侍女に髪を梳かせていたドロティーリアは、ゆったりと振り向いてにっこりと笑みかけた。
「お帰りなさい、ユーディ、観劇はいかがでした?」
 夜着の上にガウンを打ち掛けたドロティーリアは、軽く指先を動かして侍女を隣室に下がらせた。それを待ち切れずにユーディスディランは、 ずかずかと母に詰め寄って、問いに答える形で苦情を連ねる。
「楽しめたわけがないでしょう! 私が単に、歌劇見物をしたかったわけではないのだと、母上は重々ご存知のはずです。おまけに母上が、 観劇を直前に取り止められたせいで観客は落ち着かないわ、異様な雰囲気の中での舞台で役者はとちりまくるわで散々でしたよ。 それよりも――、アレグリットを、サリフォール家へお帰しになっておられぬとはどういうことです!?」
 侍女が置いて行った刷子(ブラシ)を取り上げて、垂らした髪を手ずから梳かしながらドロティーリアは、 鏡越しに険しい眼差しを寄越すユーディスディランを軽くいなした。
「あらお耳が早いこと。だけどねえユーディ、あたくし、あたくしの人質を、正しく人質にすることにしただけですわよ」
「これまで甘くしておいて、今さらですか?」
「今『さら』ではありません。今『だから』、でしょう」
 強い語調でそう訂正し、ドロティーリアは自分と同じ色をした、鏡の中の息子の瞳を厳しく見返した。 そこに母后の本気を読み取って、ユーディスディランは少しだけ質問の方向を変える。
「……アレグリットは、具合を悪くして臥せっていると聞きましたが?」
「ええ。王立劇場からの帰り道で、ひどい馬車酔いをおこしてね……。医師が申すには脱水と貧血だそう。 芯の強さにも度胸にも、劇場のサロンでは驚かせてもらいましたけれど、アレグリットは今年披露目をしたばかりの姫ですものね、 相当気を張っていたということでしょう」
「母上は、それを王宮に拉致してきて、監禁なさっておいでだというわけですか?」
「だからメルに命じて、アレグリットの主治医と乳母を、サリフォール家の邸から連れて来させたわ。 宮廷医師と女官と侍女とで事は足りていますけれど、馴染みの者に看病をされるのは、安心感が違うでしょうからね」
「そういう問題ではないでしょう! 母上、私は何故(なにゆえ)にアレグリットを、本格的な人質にする必要があるのかと伺っている。 ケリートルーゼを劇場に置き捨てたことといい、母上の制裁は行き過ぎでは?」
「行き過ぎ――?」
 右手を刷子ごと鏡台に叩き付け、ドロティーリアはユーディスディランを振り仰いだ。親の心子知らずもいいところな、愛しい末っ子の嫡男を。
「あたくしは許せぬのですよ、ユーディ! アンティフィントも、サリフォールも、あなたのことを馬鹿にして……!  王太子から恋人を寝盗っていた相手が、平民の庭師だなんて……!!」
 大仰なドロティーリアの嘆きに、ユーディスディランは深く嘆息した。昨日の号外に載ったのは、その可能性を示唆する物議を醸す記事であり、 それを書いた記者にも書かせた人物にもかなりむっときていたが、ユーディスディランがグネギヴィットの不貞を疑っていないのには、それなりの根拠があるわけで。
「馬鹿馬鹿しい、妹が下男と親しくすることを、シモンリールが見過ごしたはずが無い。だいたい、シモンリールの政務補佐を務めた後に、 兄の日課に付き合ってする庭の散策が趣味といえば趣味であるのだと、私に言って憚らなかったサリフォール公なのですよ?  そんなあの人に、いつシモンリールの目を盗んで、庭師と知り合い睦み合うような暇があったというのです?」
 冷静に論破をしたつもりのユーディスディランであったが、ドロティーリアは引き下がらなかった。疑り深い目つきをして、 反対にユーディスディランを言い破りにかかる。
「それでは、そのシモンリールが亡くなった後はどうかしらね? 昨年社交の季節を前に、あなたがエトワ州城を訪ねて別れて来るまで、 グネギヴィットはあなたと交際中、しかも求婚に対する返事を保留中――ということになっていましたわよね?  それはグネギヴィットが、最も身を慎まなければならない期間であったと同時に、かけがえのない家族を亡くした心の穴を埋めてくれる、 誰かを強く欲した時期ではなかったのかしら?」
「母上……」
「それをアレグリットと慰め合うことや、ユーディ、あなたを想う気持で、グネギヴィットが塞いでいたならそれでよろしいわ。 けれど周囲を謀るのは、サリフォール家のお家芸。グネギヴィットと清く正しい交際をしていたあなたに、どうして真実がわかるというの?  ただあなたが、グネギヴィットを信じていたいという、それだけでしょう!?」
 ドロティーリアの指摘の切っ先は鋭く、ユーディスディランは痛いところを容赦なく突かれた。兄を亡くした直後に、 グネギヴィットが妹を放っておいたとは考え難く、若い女性の身空で家督を継いだばかりでは、それこそそんな暇もなかったのでは? とも思うのだが……。 昔の恋人に対する信頼というより男の矜持から、ユーディスディランが盲目的に、グネギヴィットを信じていたいというのはまさにその通りであった。

「――つまりは、サリフォール公は白であると、証明されればよろしいわけですね?」
「それができるものでしたらね。たとえアンティフィント家の邪推に過ぎないことだとしても、あなたにこんな辱めを与えるような行いを、したというだけでも大罪です。 あなたの恥辱を雪がぬ限り、あたくしはグネギヴィットを許すつもりがなくてよ。だからアレグリットを取り上げておくの」
「それでは、申し開きをしてもらいましょう、サリフォール公に。ちょうどおいでになることだ、テーラナイア夫人には、マイナールへの遣いに立ってもらいましょう」
「王宮へグネギヴィットを呼び出して、審問にかけるというの?」
 ユーディスディランの提案に、ドロティーリアは興味深げに身を乗り出した。首を突っ込むつもり満々な母后に、傍聴させろと言われてしまう前に、 ユーディスディランは先回りした。
「はい。ただこれは、私とサリフォール公の間で付ければよい話です。さらなる物笑いの種となるのは御免こうむりますから、私事とし非公開で行います。 母上にもご報告だけは致しますが、私がどのような決を下そうとも、どうかご納得を頂きたい」
「それであたくしが納得したとして、世間が納得するかしらね? あなたたち二人の間でなあなあに、済ませてしまうことに意味はないわ」
「私がサリフォール公を、審問のため召喚するということだけはそれとなく流します。公が白か黒かという判定を世に知らしめるには、審問を終えたその後に、 母上の手許から、アレグリットが解放されるかされないかで、判断させれば十分なのでは?」
「結構よ。あなたに黒または灰色のグネギヴィットを、断罪する気があるのならそれでよろしいわ。 その場合の処罰ですけれど、単にあたくしが、怒りを収めるまでアレグリットを返さない……という程度ではないわよね?」
 甘やかしはならないぞとする母后の言葉に、ユーディスディランはもちろんと頷いた。
「私はサリフォール公の潔白を信じています。だからこそ、公にとって、何よりも堪えるであろう罰を用意して、審問の席に臨んでもらいます」


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