黒衣の女公爵  


第二十五章 「団円」 2


 まるで立ち上がる気配のないルアンの前に、グネギヴィットもドレスの裾を抱えて身を屈めた。 何よりも彼に伝えたい気持ちは、そうして合わせた目線の高さと同じに、対等に受け止めてもらいたかった。
「色々とね、あったんだ、ルアン。お前と離されている内に、お前に聞いて欲しいことがたくさん、たくさん……。ルアン、わたくしはお前に傍にいて欲しい。 ずっと、ずっと、ずっと傍に……、二人揃って皺くちゃの老爺と老婆になるまで。互いに肩を寄せ合って、一緒に泣いたり笑ったり、これから起こるどんな苦楽も、 わたくしと分かち合って欲しいんだ」
 ルアンの脳裏に浮かんだのは、何の変哲もないただの夫婦の姿だった。その絵をなすのがグネギヴィットと自分――女公爵と庭師、主人と使用人である時点で、 変哲はありまくりだが。
「子作り云々なんてことよりも、そういうことから先に言いませんか? 普通」
「そうなのかな? こういう話は、相手の口から言わせるものだと教わったから、普通というのがわからない……」
 そうか、そういったところの感覚は今の見た目通りに姫なのかと、ぐったりとしながらルアンは、グネギヴィットの望みの本質に正しく触れた気がした。 『マイナールの白百合』と呼ばれる麗しの貴婦人で、男勝りな男装の女公爵で、実のところはそうあるために意地を張り、けなげに頑張る愛おしい人で……。 おそらく世界にまたとはいない特別なこの女性に、これだけ想われているなんて、自分は今、男冥利というものに尽きているのではないだろうか?

「……すみません。普通の御方じゃない公爵様に、普通をお求めしたのが間違いでした」
「どういう意味?」
「どうもこうもそのままですよ。公爵様と俺とじゃあ、端っから普通になんてなりっこないんだ。自分のことを普通だ普通だって思い込んできましたけれど、 あなたと秘密を持った瞬間から、俺だって普通の枠から踏み外しちまっているんでしょう。……こういうこたあ男にとっても一度きりで、 だのに心も言葉も準備してきていなくって、俺だって、どう言やいいのかわかりませんけどね――」
 腹を決めてルアンは、えっこらと腰を上げた。期待と不安の交錯する眼差しで、上目使いにこちらを窺うグネギヴィットも、その手を引いて立ち上がらせる。 グネギヴィットが離そうとしてくれないので、繋いだ手はそのままに、熱く火照りながらルアンは、 くしゃくしゃにしてしまった頭をさささっと整えてから思いの丈を語った。

「俺はしがない庭師です。本当だったらあなたに指一本、触れていいような男じゃありません。だけど俺はあなたのことがすっ、好きでっ……。 自分でも馬鹿だ馬鹿だと思いながら、どうしようもなく惚れちまっているもんで……。償いだとか、責任を感じてとか、逃げようが無いからとか、 そんなじゃなくて……、あなたが望んでくれるなら、俺があなたの傍にいたい。こんな俺ですが、公爵様、一緒に生きてくれますか?」
「……はい」
 まさか、ルアンの側からやり直してもらえるとは思わなかった求婚に、グネギヴィットはいたく感動しながら承諾した。
「はい、ルアン、はい。何度だって答えるぞ、はい……。だけどルアン、もう二度とわたくしの前で、そんな風に自分のことを卑下なんてしないで。 お前の身分がどうあろうと、わたくしが誰であろうと、わたくしにとって、この世の中にお前を越える男性はいないのだから」
「はい」
 相変わらず自覚のなさげなグネギヴィットの殺し文句に、ルアンの顔がさらにかっかと燃え上がる。それを愛おしげに眺めながら、グネギヴィットは続けた。
「わたくしたちは、紙の上で結ばれる結婚じゃない。並んで公の場に出ることも、証しの指環を交わすこともできはしないだろう。 けれどわたくしは、せめて神々の御前で誓いたい。たとえ世に認められていなくとも、これが生涯に渡る誓約であることを」
 そこでルアンははっと、目が覚めるような心地がした。礼拝堂、そして、白一色のドレス――。
「だから今日はここ、で――、そんなお召し物で、いらしてたんですか?」
「そう。駄目?」
「だっ、駄目なわけないじゃありませんか! てか俺猛烈に泣きそうなんですけど……。あっと、それじゃあ……、その前に……」

 ルアンはそっとグネギヴィットの手を放してから、一人堂内を歩いて装花をじっくりと物色し、数十とある花の中からこれという一輪を選んで引き抜いた。 庭師の目から見て申し分のないそれを、宝物(ほうもつ)のように捧げ持ち、グネギヴィットの前に戻って来る。
「サリュートキュリスト?」
 ルアンの意図するところを察して、今度は逆にグネギヴィットがはっとさせられる番だった。ルアンは先ほどの言葉通りに瞳を潤めながら、照れ臭そうに微笑んだ。
「はい。これは俺が、あなたのためにできるんだって胸を張れる、たった一つのことだから。幸せにできるかどうかわかりませんけど、幸せになって欲しいから……」
 四季を司る四神の花を飾って、嫁いだ花嫁は幸福になれる――。それが古来よりデレスで語り継がれる、神々と花にまつわる伝説だ。
 軽く首を傾けるグネギヴィットの髪に、ルアンは幾分緊張しながら白百合の花を丁寧に挿し入れた。そうするだけでグネギヴィットは、煌めく夏の花嫁となる。
「馬鹿だな、ルアン……。神の花を身に着けて、嫁した娘は星の数ほどいるだろう。だけどね、ルアン、その中に、花婿が育ててくれた花を、 贈ってもらった花嫁がどれだけいただろう? お前の心が籠った白百合で飾ってもらって、永久(とわ)を誓えるわたくしが、幸せになれないはずがないじゃないか」
 指先でサリュートキュリストの花に触れながら、はにかんで笑ったグネギヴィットを、ルアンは堪らず抱き締めていた。ずっとこうしたいと思ってきた――。 身を預けてくるグネギヴィットを抱き止めたことはあっても、ルアンが自分から手を伸ばし、胸の中に閉じ込めるように抱きすくめたのは初めてだった。
「……ぎりぎりですけど、夏で良かった」
「どうして?」
「あなたにはやっぱり、サリュートキュリストが一番似合う。フィオフィニア【秋女神の薔薇】でもお綺麗に違いは無かったでしょうけれど、 俺があなたの姿を重ね合わせて、どの花よりも手をかけてきた、この花の咲く季節で良かった……!」
「……うん……」
 ルアンの熱に溺れながら、グネギヴィットもルアンの背に腕を回した。 男泣きに震える愛おしいそれは、自分の腕の長さが足りないと感じるほどに、広く大きな背中だった。


*****


 ルアンの感涙が納まるまで、しばらくそのまま抱き締め合ってから、二人は面映ゆく腕を解いて、牧師不在の祭壇に置かれた聖典の上で、手と手を重ね合っていた。
「父なるオルディン、母なるフィオ、そして常しえの兄弟姉妹たるサリュートとフレイアの御名の許に、わたくしは誓おう、ルアン。 生涯をかけてお前の妻であることを。わたくしの夫はルアンだけであることを。いついかなる時もお前を愛し、真心を尽くし、貞節を守ることを。 死が二人を分かつまで、お前と共に生きることを――。ルアンもわたくしに、同じことを誓ってくれる?」
「はい、公爵様。生涯をかけてあなたの夫であることを。畏れ多くも俺のかみさんはあなただけであることを……。 いついかなる時もあなたを愛し、真心を尽くし、貞節を守ることを。死が二人を分かつまで……、あなたさえよければ死んでからも、俺はグネギヴィット様、 あなたの傍にいると誓います」
 所々が自己流になってしまった誓いを真面目に終えて、それからどうしたものかとルアンはさて困った。頬を甘く色付かせ、瞳をきらきらとさせながら、 傍らで自分を見上げるグネギヴィットは何かを待っているが、それが何だかわからない。
「兄君の結婚式に参列したなら知っているだろう? 誓いの口付けというものは、新郎から新婦にしてくれるものだぞ」
 焦れたグネギヴィットはそう口にしたかと思うと、きゅっとルアンの服の肘を引いて、催促をするように目を閉じた。 自ずと誘導される形になったグネギヴィットの腰に手を当てて、可愛らしく突き出された柔らかな唇に、ルアンはどぎまぎとしながら己がそれを重ねた。 呼吸の仕方もわからずに、止めてしまった息が続く限りに。
「……ルアン」
「はい」
「大好き」
 誓いの口付けを終えて、大照れに照れるルアンの鼻先に、幸せいっぱいのグネギヴィットは自分のそれをすり寄せた。夫は庭師、妻は女公爵という、 非公式だが身分差を越えた、世にも奇妙な夫婦がこうしてここに誕生した。


*****


 グネギヴィットはルアンに右肘を出させて腕を組み、完全に二人きりの結婚式を済ませた新郎新婦はゆっくりと扉に向かった。 グネギヴィットはこの上なくはしゃいだ様子で、今度はこんなことを言い出した。
「諸々のことが落ち着いたら、お忍びでルアンの故郷に行こう。緊張するけれど楽しみだな」
「俺の故郷って……、ひょっとしなくても俺の実家をお尋ねになる気ですか?」
「当たり前だ。ご両親の許諾も無く大事な子息を頂戴してしまったのに、挨拶しないでどうするんだ」
 力の入ったグネギヴィットの物言いに、ルアンはぶんぶんと首を横に振った。
「や、別に粗略にゃされてませんけども、図体のでかい息子ばっかり六人もいりゃ、扱いなんてもんは適当になりますって。それに俺は兄貴が嫁さん迎える時に、 次男のお前の結婚には、なーんもしてやれないけど干渉もしないから、所帯を持ちたきゃ自力で頑張れって家からおっぽり出されてます。 俺のかみさんだって公爵様を連れて行ったら、親兄弟もじいちゃんばあちゃんも、兄貴一家もみーんなみーんな、びっくりたまげて腰を抜かして、 それからきっとおめでとうって喜んでくれますよ」
「だったらなおのこと、お会いしてみたくなったな。ルアンの素敵なご家族に、お前に巡り逢わせてくれた感謝を伝えたい。だけど今日のところは、 わたくしの親族と城の者たちに、わたくしの愛しい夫をお披露目しておこうか」
 茶目っ気含みにグネギヴィットはそう言うと、礼拝堂の扉をノックした。主人からの合図に答え、恭しくそれを開いてソリアートンが顔を覗かせる。 ルアンが驚嘆したことに、さらにその向こうには、左右に分かれ列を作った人、人、人――。
 それは、許したからには祝してやるわというサリフォール家の一門であり、徹夜で女主人の花嫁衣裳を縫い上げた侍女たちであり、 腕によりをかけて礼拝堂の飾り付けを行ったルアンの庭師仲間であり、仕事の手を休めて駆け付けたその他使用人と州府の官たちであり、 そして何故か涙ぐんでいる衛兵たちであり……、身分や立場の垣根を越えて、二人を慶そうと集ってくれた大勢の人々であった。
 あっけにとられたルアンは、半ばグネギヴィットに引きずられるようにして外に出た。途端に脇から、ふわりと花弁をかけられる。
「おめでとうございます! お姉様、お義兄様!」
 花弁を投げかけた両手を下ろしながら、アレグリットが朗らかに寿ぎの声を上げたのを皮切りに、「おめでとう」の大合唱と祝福の花弁が、 頭をかきかき戸惑うルアンと、それにぴったり寄り添い無いながら、笑顔で手を振るグネギヴィットの上に降り注いだ。


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