緑指の魔女


第十三章 「相思」 1


 牧歌的な辺境の村に、穏やかならぬ空気が満ちたまま、一夜が過ぎ、二夜が明けた。
 三度目の夜明けを迎えたその日、カリヴェルトとシャレルの結婚式を翌日に控えて、 シュレイサ村にようやく活気が戻ってきた。
 この時ならぬ祭りの準備は、村人たちの荒んだ心に潤いと興奮をもたらした。殊に、過去の盗賊事件の記憶を持たぬ、 ヴェンシナと同世代の若者たちや、それより幼い子供たちにとっては、村に兵士が来た以上の関心事である。
 村の中央の広場には、男たちの手により、大きなテーブルと多くの椅子が運び出され、 女たちは持ち寄る料理の下ごしらえと、明日のお洒落の支度に余念がない。
 教会の庭先では、村の音楽好きが楽器を持って集まって、 俄か作りの楽団を結成し、賑やかにダンス音楽の練習を始めている。
 奉仕に訪れた村人たちと共に、ランディとヴェンシナは、 聖堂の掃除にかり出されていた。ヴェンシナの担当はモップを使っての床磨き。 ランディはその長身を買われて、高い梯子に上り天井近くのステンドグラスを 内側から丁寧に拭き清めていた。
 シュレイサ村のような小さな集落にまで、美しいステンドグラスで飾られた聖堂があるのは、硝子工芸で有名な王都を構えるデレスならではのことである。
 精緻なモザイクで描かれているのは、四季と家族に模される二柱の男神と二柱の女神。
 春を司る処女神フレイア、夏を司る青年神サリュート、秋を司る母女神フィオ、 そして、冬を司る父男神オルディンである。神々にはそれぞれに象徴となる植物があり、 その季節に見合った神の花を身につけて嫁いだ花嫁は、幸せになれるという伝承が伝わっていた。


*****


「すごーく綺麗になったわねえ」
 掃除が終わった聖堂を覗きに来て、ラグジュリエは満足そうににこにこと笑った。 常日頃から掃除を怠っているわけではないが、 いつもはそう多くの人手があるわけではないので、 今日のような冠婚葬祭前の大掃除でないと、 隅々までを美しく清めることはできないのだ。
 参列客に振舞う焼き菓子を、朝からずっと焼き続けているというラグジュリエに近づくと、 胸が焼けるような甘い香りがした。 掃除道具を片付けて戻ってきたヴェンシナは、このところ胃の調子がはかばかしくな く食欲減退気味である。 ラグジュリエに悪いと思いつつも少しげんなりした様子で尋ねた。
「どうしたの? ラギィ」
「あのね、お掃除が終わったって聞いたから、ヴェンを迎えに来たの。 ねえ、ケーキを焼くのを手伝って」
「ええっ、ケーキ!?」
 ヴェンシナは青ざめて、ぶるぶると首を左右に振って断った。
「僕には無理だよ、ラギィ。だいたい僕には料理なんかできないよっ」
「知ってるわよ。だから、あたしの言う通りにしてくれればいいの。 卵とかクリームをまだまだたくさん混ぜなきゃいけないんだけど、 あたしもうすっかり、腕が疲れちゃったんだもん。お願いっ!  二人の名前を入れて、お祝いに贈る大切なケーキなの」
「私が代わりに手伝おうか?」
 顔色の悪いヴェンシナを見かねて、ランディが横から声をかけた。 ラグジュリエはランディのエプロン姿を想像して思わず吹き出した。
「ありがと、ランディ。だけど柄じゃないわよねえ」
「そんなっ、いいですっ、僕が手伝います!」
 ランディの気遣いに恐れ入って、ヴェンシナは慌てて前言を撤回した。 ランディは教会での労働奉仕をあっさりと受け入れて、 農作業や力仕事を気軽に引き受けてくれていたが、 この上自分ですらしたことがないお菓子作りにまで参加させてしまっては、 いくらなんでもヴェンシナの立つ瀬がない。
「そうか? なかなか面白そうではないか」
「あら、それなら、二人一緒でもいいわよ」
 ランディとラグジュリエの間で、ヴェンシナを抜いて勝手に話がまとまりかけていたその時のことである。
「――ランディ!」
 聖堂を訪れた金褐色の髪の娘が、その戸口からランディを呼んだ。
「急ぎの用があるの。ちょっと、いい?」
 いつになく緊張した面持ちの、それはサリエットであった。 ふとヴェンシナと目を見交わしてから、ランディは足早にサリエットに歩み寄った。
「どうした?」
「大事な話。向こうで――、いい?」
「ああ」
 周囲の村人を気にしながら、声を潜めるサリエットに頷いて、ランディはヴェンシナとラグジュリエを振り返った。
「サリエットと少し話してくるぞ」
「じゃあ、あたしたち、先に台所に行ってるわね」
 ヴェンシナが口を挟もうとする前に、ラグジュリエは彼の腕を素早くがっちりと捉まえた。付いて来たそうな様子のヴェンシナを置いて、ランディはサリエットと共に聖堂を抜け出した。


*****


 教会の裏手にある厩の前にランディを導くと、サリエットは再度きょろきょろと辺りを見回して、他に人がいないことをよく確かめてから慎重に唇を開いた。
「フレイアがいなくなったの」
「何だって?」
 ランディは眉を顰めた。フレイアシュテュアには、村中を騒がせた家出未遂の前科がある。
「村のどこかで、明日の準備の手伝いをしているということはないのだな?」
「ええ、お父様が許可していないもの」
 フレイアシュテュアの気が塞いでいるので、口煩く干渉をせず一人にしておいてやるようにと、サリエットは家の小間使いたちに言い含めてきた。 賢しらな小細工に過ぎないが、いくばくかの時間は稼げることだろう。
「お父様は忙しくて、フレイアが抜け出したことにまだ気付いていないわ。だから、ランディ、早くあの子を見つけてあげて」
「ああ」
 他ならぬフレイアシュテュアのことである。 ランディには、サリエットの頼みを聞き届けることに異存はなかった。
 村の中にいないというならば、フレイアシュテュアは森へ行ったに違いない。 シルヴィナ【精霊の家】の森は彼女にとって庭のようなものかもしれないが、 国境付近は今、常にもまして危険な状態なのである。
 鞍を背に乗せ、はみを噛ませるのももどかしく、 ランディは愛馬を厩から引き出して、その上に素早く騎乗した。見送りをしてくれるサリエットの瞳の中に、 色濃い心配の翳りを見て取って、ランディは馬上から声をかけた。
「サリエット、君は……、フレイアのことが好きなのだな」
 金褐色の頭を左右に振って、サリエットは否定した。
「いいえ、フレイアの事は、嫌いよ。 お父様の娘はあたしだけだもの。みんなが馬鹿な噂話をしなくなるように、 この村からいなくなって欲しいってずっと思ってるわ。だけど、ね――」
 サリエットは自嘲するように笑った。
「あの子を村から連れ出してくれるのが、 エルアンリ様じゃなくてあなただったら、その方がずうっと気分がいいわ。 お父様のことは信じてあげたいけど、噂がもしも、本当だったら……、 あの子はあたしの義妹(いもうと)ですものね」
 義妹という言葉に響きに、サリエットの複雑な心の綾と、 えもいわれぬ情愛が織り込まれていた。横暴な領主の息子にフレイアシュテュアを差し出さねばならなくなったことを、誰よりも負い目に感じ苦痛を覚えているのは、 他でもなくこのサリエットなのかもしれない。
「村の人たちの半分はね、本当は、フレイアのことを憐れに思ってる。 その生まれも、エルアンリ様のことも。だけど何にもしてあげることはできないから、 代わりにあなたに期待しているの」
「責任重大だな、それは」
「自信がないの?」
 挑発的なサリエットの問いかけに、ランディは破顔した。
「そう見えるか?」
「いいえ。だから、フレイアをお願いね」
「……そうだな」
 ランディはサリエットの想いを受け止めた。 それはまた、秘められたフレイアシュテュアの想いでもある。 熱く満ちるものを胸に感じながら、ランディは愛馬の首を叩いた。
「行こうか、ガルーシア」
 運命が待つ森へ。
 恋が始まりを告げた、その場所へ。


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