緑指の魔女


第十九章 「信頼」 2


 いくばくかの時がじりじりと経過した。 時折響く、何かを叩き壊すような音、大きなものが崩れ落ちる轟音に混じって、 柄の悪い男たちの野卑な笑いやがなり声が聞こえてくる。
 恐ろしさに身をすくませながら、誰も彼も、ここにいない人々に思いを馳せずにいられない。 獣のような盗賊たちによる陵辱や虐殺が、 今まさに村のどこかで行われているかもしれないのだ。 そうしてその想像は、次は自分の身に降りかかるかもしれないという、 さらなる闇へと繋がってゆく。
「……救援など、来るものか」
 村の男のひとりが、ひび割れた声でぽつりとつぶやいた。
「前の時は、そうだった……。国境警備隊が村に来たのは、 何もかも奪いつくされたその後だ……」
 絶望感は急速に伝播する。一人が口火を切ったのに呼応して、 他の村人たちも次々と、喉の奥につかえた不吉な塊を吐き出した。
「村はもうお終いだ。全部燃やされて、みんな死んじまうんだ」
「また殺される――! 今度は私が殺されるんだよ!!」
 古い記憶を持つ大人たちを中心として、負の感情がひたひたと聖堂を満たしてゆく。
 エルフォンゾはおもむろに立ち上がり、ステンドグラスに描かれた四季の神々に祈りを 捧げると、いつもと変わらぬ穏やかな口調で諭すように話しかけた。
「教会に逃れてきた者は昔、みな無事に助かったのではなかったかのう。 神々は確かに、我々を見守って下さっておいでじゃよ。 己の心の弱さに負けてはいかんのう。みな神のお慈悲を信じて、 心安らかに救援を待ちなされ」
「ああ、牧師様……」
 信心深い老人や、乳飲み子を抱える母親たちが、 すがるような思いで老牧師に手を伸ばす。エルフォンゾは村人の心を和らげる為に、 うずくまる人々の間を縫って、その手の一つ一つに優しく触れていった。
「しかし――、レルギットの国境警備隊を牛耳っているのはあのエルアンリ様だ!!」
 老牧師から遠く離れた壁際で、一人の男が大きな声で嘆いた。
「そうだ――、エルアンリ様だ!」
 また別の男が立ち上がって叫び、フレイアシュテュアを捜し睨みつけて、 びくりと身を強張らせる金髪の魔女を糾弾した。
「フレイア! お前が逆らったから、 エルアンリ様はシュレイサ村を見捨てるに決まっている!!」
「愚かな魔女め! お前などがいるから村はおかしくなる!」
「あの方のお望みのままに、妾になってくれればよかったものを!」
 不当な言いがかりに心に深い傷を穿たれて、 フレイアシュテュアの白い顔がくしゃりと歪んだ。
 サリエットは未だ止まらぬ涙をしゃくりあげながらも、フレイアシュテュアの 金色の頭を庇うように抱き締めた。
 髪の色に負けず劣らず、顔を真っ赤に燃やしたラグジュリエが威勢よく飛び出してきて、 フレイアシュテュアの前に身を挺し、大切な『姉』の代わりに憤慨した。
「フレイアは何も悪くないわっ!! フレイアに謝ってよっ!!  一体誰のお陰で、村に兵士さんたちを寄越してもらったと思ってるの!!  守ってもらったと思ってるの!! それにヴェンや、騎士様だっていてくれるのよ!!  馬鹿ばっかり言ってないでっ、ヴェンや兵士さんたちに感謝しなさいよっ!!」
「だが、今助かっていても、救援が来ないようじゃどうにもならん!!」
 悲観的な考えを述べる村の大人に、ラグジュリエは苛々と噛み付いた。
「どうして来ないって決め付けるのっ!」
「何故来ると信じられる!?」
 村人も負けじと怒鳴り返す。十三歳の少女相手に大人げがないばかりでなく、 ラグジュリエには許せないような、この上なく後ろ向きな考え方だ。
 ラグジュリエは怒りが高じて癇癪をおこした。 だんっと足を踏み鳴らし、拳を握って大声で叫んだ。
「だってあたしっ、まだ、まだ、まだ、まだっ、いっぱい生きていたいんだもんっ!!」
 ラグジュリエの魂の叫びは、その場にいる全員が共感できる心からの願いであった。
 堂内はしんと静まり返った。救援が来ると信じていてもいなくても、 望むことは唯一つだけだ。


*****


「大丈夫、希望はあるさ」
 キーファーはラグジュリエの赤い頭をぽんぽんと叩き、少女の癇を静めた。微笑む余裕すら感じられるキーファーに、ヴェンシナは いぶかしむような眼差しを向ける。
「キーファー、君、何を?」
 キーファーはヴェンシナと視線を合わせながらも、 周囲の人々にも聞こえるように大きく声を張った。
「だって、ヴェンシナ、君だって思っているだろう?  救援の声がトゥリアンに届きさえすれば、きっと助けは来るって。 国境警備隊のエルアンリ様とやらがどれだけ信のおけない方でも、 アレフキース殿下がおいでである限り、必ず兵を送って下さるって」
「それは、そうだけどっ」
 キーファーがアレフキースの名を口にしたことにヴェンシナは焦った。 王太子がトゥリアンにいることは、公表してはいけないのではなかったか?
「アレフキース殿下……? 王太子様……?」
 ラグジュリエは見上げるようにして、キーファーの瞳を覗き込んだ。
 キーファーは少女を安心させようと、努めて優しく笑って見せた。
「そうだよ。王太子殿下は今、密かにトゥリアンまでお越しでいらっしゃる。 レルギット領主館にご滞在中なんだ。……ランドリューシュ様もご一緒にね」
「ランディもトゥリアンにいるの!?」
「うん。もし報告を受けられていたら、あの方は本当に気を揉んでいらっしゃるだろうね。 シュレイサ村での休暇は楽しかった、村の人たちには世話になったって再三言っておいで だったし、何よりもね、最愛の女性をここに残しておられるから」
 キーファーはそう言って、フレイアシュテュアを見た。互いにすがるようにして、 サリエットと支えあいながら、ランディの想い人は、 キーファーの言葉を受けて艶やかに頬を染め、 色の違う二つの瞳を戸惑いながらも煌かせていた。
「あの方は今頃、それを一番に悔やんでおいでじゃないかな?  僕らのことも心配して下さっているだろうけどね」
 ヴェンシナはキーファーの脇腹を突いた。仕事熱心で真面目な彼は、 同輩の大胆な発言に頭を痛めていた。
「キーファー、隊長たちにばれたら、きっと君叱られるよ。守秘義務を守れんのかって」
「だけど殿下は笑って許して下さるさ、みんなを励ます為なら仕様がないって、 そういう御方、だよ」
「うん、そう――だね」
 主君の大らかな笑顔を思い出すと、ヴェンシナの胸の内にも勇気の灯がともる。 必ず助けを寄越してくれるという、絶対の信頼。 どれほど困らされ、振り回されることがあっても、 主君が名も無き民に向ける温かな眼差しだけは、ヴェンシナは疑ったことがない。
「ねえ騎士様、王太子様って、一体どんな御方なの?」
 湧き上がる好奇心に背中を押されるまま、ラグジュリエはキーファーに質問した。
「うーん、そうだねえ……」
 キーファーは答えあぐねた。『王太子』には二つの顔がある。 目の前の少女には、そのどちらを教えてやればよいのだろうか?
「黒髪で黒い瞳で背の高い方だよ、ラギィ」
 当たり障りなくヴェンシナが答えた。以前と同じ回答に、 ラグジュリエが不満を漏らしかけたその時、ボンッという爆発音が耳をつんざき、 爆風と共に木っ端が散った。


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