緑指の魔女


第二十七章 「告白」 4


 立ち並ぶ林檎の木立の向こうに、キーファーと少女たちが見えなくなったあたりで、 アレフキースはフレイアシュテュアに追いついていた。
「フレイア!!」
 アレフキースが手を伸ばしてフレイアシュテュアの腕を掴む。 強引に引き戻した娘の身体を、アレフキースが背後から抱きすくめるのを見届けて、 エリオールも足を止め、手近な繁みの陰に素早く身を潜めた。


*****


「あの……放して、下さい……」
 アレフキースの腕にきつく抱かれ、その強さと激しい動悸で窒息しそうになりながら、 フレイアシュテュアはようやくに訴えた。
「駄目だ。君はまた私を避けて、逃げ出してしまうに決まっているからな」
 容赦なくアレフキースは、恋人を抱き締める腕に力を込めた。骨が軋むような抱擁に、 フレイアシュテュアが小さく悲鳴を上げる。
「逃げませんから、殿下」
「殿下――、か」
 両手を緩めて、アレフキースは少し寂しげに眉を寄せた。大きく心を乱しながら、 フレイアシュテュアは喘ぐように息を継ぐ。
「もうランディと、親しく呼んでくれることはないのだな」
「……あなたの本当のお名前を、お伺いしましたから、アレフキース殿下」
 恋しい青年の腕の中にある至福を確かに感じながらも、彼の正体が王太子であるという 事実は、フレイアシュテュアの心を悲しく翳らせ、頑なに卑屈にさせていた。
「大きな嘘をついて、君を欺いていたことは謝ろう。だがそれ以外に偽りはないのだ。 フレイア、君は本当の私のことは受け入れてくれないのか?」
「幸福な夢をひととき、見せて頂けただけで充分です。私は孤児で、 シュレイサ村の魔女なんです、王太子殿下……」
 自分自身を厭うように答えて、フレイアシュテュアは小さく肩を震わせた。 魔女という言葉が複雑な意味合いを持ち、痛切な悲哀を帯びてアレフキースの耳に響く。
「……だからどうだと言うのだ? 君が教会で育った孤児であることも、 緑の指の魔女であることも、私は全て承知の上だぞ。そのような理由だけで、 君は今になって私を拒もうというのか?」
 フレイアシュテュアの頬に手を伸ばし、温かな指先で涙を払ってやりながら、 アレフキースは事も無げにそう言った。左右色違いの瞳をした『緑指の魔女』であることを、 フレイアシュテュア自身がいかに嫌悪し卑下していようとも、アレフキースにとっては、 恋心を醒ますような妨げにはならなかった。それどころか危うげな秘密を抱えている彼女に、 なおさらに庇護欲を掻き立てられて、恋着はよりいっそうに増しているといえる。
「拒むだなんて、そんな……」
 自らの心の内側に存在する、目には見えぬ大きな隔たりを、あっさりと越えてきた アレフキースに、フレイアシュテュアは驚き戸惑いながらゆるりと頭を振った。
「否定はできぬであろう? 君は今朝からずっと、私を避けていたではないか」
 拗ねるようにも聞こえる口調でアレフキースが責める。フレイアシュテュアは細い声で、 消え入るように答えた。
「それは、殿下……。あなたからお別れを……、お聞きするのが、辛くて――」
 恋に慣れぬフレイアシュテュアの、奥床しく純真な回答は、アレフキースの心の内を たとえようのない愛おしさで満たした。王太子から愛妾に望まれるかもしれないと思い 至ることもなく、かわりに永の別れを言い渡されるその時を、悲しみながら待っていた 清純な彼女を、やはり手放すことも、日陰の身に貶めることも、できはしないと アレフキースは思う。
「別れの言葉など口にするものか! 私はもう二度と、君を失うのは御免だからな!」
 強い調子で言い切られて、フレイアシュテュアは白い頬を燃やした。 高ぶる鼓動で耳が熱くなるが、その大きな心地よい音は、一体誰のものなのだろうか。
「騎士だ王子だと偉そうに名乗ったところで、私も他の男と変わりはしない。 どうすれば君を奪ってゆけるかと、考えるのはそればかりだ」
 フレイアシュテュアを抱く腕に熱を込め、その柔らかな金髪に頬を当てながら、 焼け付く想いを吐露するようにアレフキースは告白した。
「このまま君を攫ってゆきたい。フレイアシュテュア、私のものになって欲しいと言ったら、 君は何と答えてくれるだろう?」
「……今さらのことです」
 すっぽりと自分を包み込んでいる、アレフキースの腕にためらいながら指先を添えて、 フレイアシュテュアは震える声で返事をした。
「あなたがエルアンリ様との決闘で、勝利を得られたあの時から、 私は既にあなたのものなんです、アレフキース殿下……」
「フレイア……」
 吐息のような囁きで、アレフキースは愛しい娘の名を呼んだ。
「……私を望んで下さるなら、差し上げます」
 輝かしい彼の身辺を汚さぬ為には、否と答えるべきかもしれない。 王太子の傍に上がるという不遜に怯え、けれども、アレフキースを恋うる想いに 正直な言葉を、フレイアシュテュアは唇に乗せていた。
「あなたが攫って下さるなら、どこへでも参ります。私の全ては、 あなただけのものですから……」
 愛しい青年に独占される――。それはとてもとても、甘美なことに思えた。 湧き上がる歓喜と畏怖に翻弄されながら、フレイアシュテュアはなんとか言を継いだ。
「……フレイア」
 肩に手を掛けて促すと、フレイアシュテュアは逆らわず、身体ごとアレフキースに向き 直った。俯く彼女の頬に手を添えて上向かせてみると、二色の瞳は新たな涙を湛えていた。
 アレフキースが顔を近付けると、フレイアシュテュアは顎を引き、臆病に眼差しを伏せる。 瞬きと共に零れ落ちた大きな涙の粒を、アレフキースは唇を寄せて掬い上げた。
「何故泣いている?」
 アレフキースの問いにまともな答えを見つけられず、 フレイアシュテュアは首を横に振った。
「……わかりません、どうしてでしょう……? 何だかとても怖くて……」
「何が怖い?」
「あの……、多分……、幸せが……」
 その密やかな声を奪うようにして、アレフキースはフレイアシュテュアに口付けた。 柔らかに優しく、神聖な誓いを与えるように。
「君が私のものであるように、私もまた、君だけのものだ、フレイアシュテュア。 全身全霊を賭けて君を守ることを約束しよう、怖れる暇もないほどに、君が常に、 幸福でいられるように」
「……はい」
 フレイアシュテュアは焦がれ続けたアレフキースの黒い瞳を、眩しく頼もしく受け止めて、 全てを委ねるように、たおやかな身体をそっと彼の胸に預けた。喜びに打ち震えながら、 アレフキースはもう一度フレイアシュテュアを強く抱き締めて、 その背を長い髪と共にいとおしげに愛撫してから、名残り惜しそうに、 ようやく彼女を解放した。


*****


 その様子を窺い見て、どうにか一段落がついたらしいと見定めたエリオールは、 身を潜めていた木陰から音もなく一歩を踏み出した。
「アレフキース様」
「!!」
 エリオールの呼びかけに、アレフキースが虚をつかれたような顔つきで振り返る。 エリオールは主君の傍近くまできびきびと歩み寄ると、軽くマントを捌き一礼をした。
「じきに陽が落ちます。お話が終わられたのでしたらそろそろお戻りを」
 驚きと羞恥で身を縮めるフレイアシュテュアを背に隠しながら、 アレフキースはエリオールをじろりと睥睨した。
「……エリオール、私は向こうで待っていろと言わなかったか?」
「伺いましたが、殿下のお言葉に全て従っていては、護衛の任は果たせませんので」
 一部始終を目撃した素振りなど微塵も見せずに、エリオールはけろりと答える。 会話の内容までは、完全には聞き取れぬ距離を保っていたと思しい側近の心配りが、 アレフキースにはなおさらに小憎らしい。
「いい加減にしてくれ! だから王太子など嫌なのだ!!  私的な時間くらいは尊重できんのかっ!!」

 アレフキースが上げた激昂の声は、離れた場所にいるキーファーと少女たちの耳にも届いた。
「――まあ、無理だろうねえ。殿下の日頃の行状が行状だから」
 キーファーはエリオールに代わり返事をした。ラグジュリエとサリエットは深く納得し、 堪えきれずに大いに笑った。


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