緑指の魔女


番外編 「恋文」 2


 サリフォール公爵家の養女姫、フレイアシュテュアの一日は、お妃教育に始まりお妃教育で終わる。
 現王后の郷であるサリフォール公爵家は、それ以前にも多くの后妃を輩出してきた、デレス屈指の名門である。后がねの姫を育てるには最高の環境といえ、王太子妃に求められる品格と教養、 それからアレフキースの好みを多分に考慮して、フレイアシュテュアの育成計画は綿密に練られていた。
 作法に始まり学芸の分野まで、専門の教師が複数で指導に当たっているのだが、フレイアシュテュアの学習状況を確かめて時間割を組み直すのは、蟄居(ちっきょ)中の暇を飽かせたランドリューシュの 役目である。フレイアシュテュアの熱心さにランドリューシュが応じてくれる形で、授業後のお茶の時間を『お兄様との課外授業』に充てるのが、フレイアシュテュアの日課となっていた。
 近頃の『兄妹』の勉強場所は、フレイアシュテュアの花咲ける庭。四阿(あずまや)のテーブルの上には、焼き菓子や花の砂糖漬けと茶器一式が並べられ、フレイアシュテュアは手芸をする針を器用に動か しながらのことで、一見すると、ランドリューシュの鬼教官ぶりなどまるで窺い知れぬ優雅さである。
 そこに今日は珍しく、仕事休憩中の庭師長も同席していた。
 一門の総領である若君と、お妃修行中の養女姫と、使用人であるはずの庭師長。
 世間一般的にはかなり奇妙な取り合わせといえるが、ここエトワ州城では今さら驚くこともない光景である。いかにも庭園職人といった風体の庭師長は、のんびりとお茶を啜りながら、 血を分けた息子と血の繋がらない娘を興味深く見守っている。


*****


「……二十六代、ハイエルラント四世陛下。二十七代――」
 緑系統の端切れを継ぎ合わせながら、フレイアシュテュアは詩文の詠唱でもするように、デレスの歴代国王の名を初代から順にそらんじていた。ところどころたどたどしくなるその声を、 ランドリューシュは物静かに聞いていたが、だしぬけに渋い顔つきをして短く遮った。
「違う」
「え……と」
 キルトを縫っていた針を休めて、フレイアシュテュアはまごまごと、ランドリューシュに視線を向けた。指摘を受けた箇所から、もう一度じっくりと記憶を探り直す。
「あ……。二十六代がアレフキース二世陛下で、二十七代がハイエルラント四世陛下でしたっけ? 二十八代は今上のユーディスディラン二世陛下でよかったですよね?」
「そう。いささか詰めが甘かったようだね。ということでこの試問は、残念ながら不合格。日を改めて尋ねることにするから、次は間違いなく答えられるようにしておくように」
 頷いて、ランドリューシュは香草茶の入ったカップに手をかけた。惜しいところまではきていたのだが、まけてやるわけにはいかない。中途半端な知識のままでうやむやにしてしまえば、 後から恥をかくのはフレイアシュテュアである。
「はい、お兄様」
 宿題を一つ増やしてしまって、フレイアシュテュアはしゅんとなった。不合格になったのが悔しいというよりも、なかなか期待に応えきれない自分自身が悲しくなる。
「なあに、それだけ言えればたいしたもんじゃないか。俺は三代前の国王様だって知らないよ。そんなに深くしょげなくたって大丈夫だよ」
 優しく励ましてくれるように庭師長が口を挟む。『娘』を甘やかす父親に対して、ランドリューシュは憎まれ口を叩いた。
「父上には、はなから覚える気も無いでしょうに」
「そりゃああれだよ、ランディ。お前たちには必要不可欠な教養なんだろうが、庭師が歴代陛下のお名前を言えたって、宴会芸にもならんだろう?」
 庭師長はのほほんとそう言って、空になったカップを受け皿に置いた。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
「おかわりはよろしかったですか? お父様」
 縫いかけのキルトを膝に置き、ポットに手を伸べようとするフレイアシュテュアを、庭師長は微笑みながら止めた。
「ありがとう、フレイア。だけど、勤務時間中にあんまりゆっくりしていると、下の連中に示しがつかないもんだからね。気持ちだけもらっておくよ」
「そうですか……。それでは次は私に、お父様のお仕事を手伝わせて下さいね。他の庭師さんたちのお邪魔にはならないようにしますから」
 控え目なお願いをして、フレイアシュテュアは笑みを返した。一日の内に『父』と『娘』が接する時間は僅かであったが、緑の指を持つフレイアシュテュアと、庭師を天職と心得る庭師長の間には、 多く語らずとも通じ合う和やかなものが生じていた。
「うん、いつでもおいで。何ていうか……、娘がいるっていうのはいいもんだね」
 庭師長はくしゃりと頭を掻いて、娘の父親になった感慨にほくほくと浸りながら腰を上げた。父親のしみじみとした物言いがおかしくて、ランドリューシュはお茶にむせた。
「何をやってるんだい? ランディ」
「いえ……、息子ばかりで申し訳なかったなと」
「男の子は男の子で楽しいもんだ。それに息子がいれば、いずれ娘だってできるもんだろう?」
「ええ、まあ、いずれ……ですね。私自身のことは、フレイアを殿下に片付けてからと――」
 急に話を向けられて、ランドリューシュは曖昧に言葉を濁した。今のところランドリューシュには決まった相手がいない。不特定多数の相手ならいる、などとは、浮気のうの字にも程遠い父親には言えない し、フレイアシュテュアの耳にも入れたくはない。
「ランディ、ある程度は仕方がないんだろうけども、フレイアはまだ城での生活に慣れちゃあいない。初めのうちは、人目に晒されているだけでも参ってくるもんだ。あんまり無理をさせてはいけないよ」
「わかりました、気をつけます」
 深く追及されなかったことにほっとしながら、フレイアシュテュアの気色を確かめてランドリューシュは殊勝に答えた。今も彼らの傍らには、火鉢の番をしながら給仕役の侍女が一人控えている。
 城の使用人は、若様育ちのランドリューシュにしてみれば、痒いところに手を届かせる当たり前の存在。対外的な問題として、血縁がない――上に、件の決闘騒ぎのせいで恋人疑惑まである――『兄』 である自分と、フレイアシュテュアを二人きりにさせないようにという配慮もある。
 しかしながら、フレイアシュテュアの中には、また違った解釈があるのだろう。教会の孤児から公爵令嬢へ――。フレイアシュテュアが環境の激変によって負った苦労というものは、 誰よりもこの父親が理解してやれるのかもしれない。彼もまた、女公爵の内縁の夫という特殊な立場に、唐突に置かれたような人だから。
「じゃあ、また、夕食の席で」
「はい、父上」
「残りのお仕事頑張って下さいね、お父様」
 目深く帽子を被り直し、照れたようにしながら仕事に戻る庭師長を見送って、『兄妹』は課外授業を再開した。引き続いて王国史のおさらいであったのだが――。
「あっにうえー、あねうえー」
 招かれないこともない闖入者によって、それは派手に賑やかに遮られることになる。


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