失楽の予見者


第一章「後朝」1

 深い深い森の、白い白い闇の中で、ただかの人の手の温もりだけが確かだった。
 霧の木立の中へと、今にも溶けて失われてしまいそうな儚げな風情で、鮮やかな紫の瞳を哀れみの色で染めながら、かの人は暗く塗りつぶされた心を救い上げてくれた。
 乱れた想いのままで、引き寄せ抱きすくめると、細い身体はおののいていた。

 このまま攫って逃げることができるならば――。

 強い望みはけれど、叶えられる筈もない。
 しっとりと濡れた、(さや)かなる月光のような髪に頬を埋めながら、この霧がいつまでも晴れぬことを願った。 蒼穹の神の目に、二人の姿が触れることのないように……。



*****


 白い夢から覚めると、見慣れぬ寝台に広がる、寝乱れた銀色の長い髪が見えた。
 驚いて身を起こして、アルセイアスは思い出した。昨夜彼は新しい妻を娶り、彼女と一夜を過ごしたのだ。夢の中の女性とは違う、まだ少女の年頃の幼い妻と。

 罪深い夢だ。
 かの人にも、妻たち(・・)にも、そして、神にも。

 まるで(うつつ)の出来事のように、生々しく腕に感触を残す、 狂おしく甘美な夢を繋ぎ止めようと足掻きながら、アルセイアスは傍らに眠る新妻を眺めた。 かの人と同じ艶の肌、同じ輝きの髪。求めることを許されぬ恋しい人と、血を分けた妻を得たことで、 心の(たが)が外れてしまったのだろうか……。

 明り取りの窓が投げかける、おぼろげな光を頼りに、アルセイアスは昨夜脱ぎ捨てた衣服を探した。その微かな揺らぎに、幼い妻も目を覚ました。
「……アルセイアス様?」
 妻はまだあどけない声で、不安げに夫の名を呼んだ。アルセイアスは微笑して、妻の顔にかかる髪を優しく掻き分けると、その唇に軽く接吻した。

「お早うございます、マリアセリア。気分はどうですか?」
「はい、大丈夫、です……」
 まだ慣れぬ口付けと、淡い闇の中に浮かび上がる夫の裸身に頬を染めながら、マリアセリアは小さく頷いた。 アルセイアスがそのどこまでも青い双眸で、寝覚めたばかりの自分の姿を見下ろしているのかと考えると、恥ずかしさからまともに目を合わせることができない。

「アルセイアス様、もう、行かれるのですか?」
 口元近くまで掛け布を引き上げながら、マリアセリアは尋ねた。
「そうですね、少し早い時間ですが」
「では、ご準備を、お手伝いします」
 胸元を隠しながら、慌てて半身を起こしたマリアセリアを押し止めて、アルセイアスはあやすように言った。
「一人でできますよ。あなたはもう少し休んでいるといい」
「いいえ、そんなことをしたら、お母様達に笑われてしまいます」
「黙っていればわかりませんよ、大丈夫」
「はい……」

 アルセイアスに妻問いを受けたら、あれもせよこれもせよと、一族の女たちから言い含められていたマリアセリアは、 気負いを削がれてしゅんとしょげかえってしまった。
 幼妻のそんな様子が微笑ましく好ましく思えて、アルセイアスはマリアセリアの肩を抱き寄せると、その絹糸のような銀色の髪を撫でた。

「いつになるかわかりませんが、今宵もまた、あなたに逢いに忍んで参ります。意地悪をなさらずに、室に入れて下さいね」
「そんな、勿論です。お待ちしています」
「あと、それから」
 マリアセリアの、左が青で、右が紫の、色違いの瞳を間近から覗き込んで、アルセイアスは言い聞かせた。
「私のことは、セイアスと呼んで下さい。もちろん吾兄(わがせ)でも構いません。 あなたは吾妹(わぎも)となったのだから、様などつけて、よそよそしく呼ばなくてよいのです」
「はい……セイアス」
 かそけき声で答えた、マリアセリアをふわりと抱いてから、アルセイアスは寝台を降りて身支度を整えた。 妹兄(いもせ)の契りを交わした証しに、寝具の上に重ねて掛けていた、 自分とマリアセリアの上襲(うわがさね)を取り換えて。

「では、セリア、また夜に」
「はい……、吾兄」
 素肌の上に、自分の着て来た上襲を打ち掛けて見送る、愛らしい新妻の額に接吻して、アルセイアスはマリアセリアの室を後にした。
 戸口でマリアセリアが見せた、はにかみながらも輝くような笑顔に安堵し、喜びを感じながらも、アルセイアスの心はうち沈んでいった。
 岩屋の外には、冷たく朝霧が満ち満ちていた。木の影に(きざはし)の先に、 夢の女性の幻が見えるようで、己の弱さと、強欲さと、罪深さとに嫌悪を覚えずにはいられなかった。

- continue -

2006-09-17(2015-12-16 改稿・再掲)

  


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